自己責任論について。雑記。

あんまりこういったある程度話題に上りやすい枠内の事は記したくないけど、都知事選の立候補者の某氏が幼稚なさざめきを立てていたので一応書いておく。

維◯新の◯然り自称東大に行かせる塾•予備校講師然り自分が努力して這い上がった人間が歯節に出す「私は他人の苦労が分かる」は翻訳が必須で、意訳すると「私は苦労してきたから認めろ」である場合がある。何故こうなるかはお察しで単に学生気分が抜けていない。

世論の一角に確かに「努力には相応の対価有り」という風な雑音が混じるのを否めるものではないが、定量化できない奉公に報いるには実はかなり苦労を伴う。日本で言えば戦国、西洋で言えばメイド辺りが適当だろうか。モノを純粋に積み上げるより戦力を削ぐだの埃を掃くだのは急を要さないし可視化できないことも珍しくないので積算が難しく、この課題を歴史的には東西問わず上下•身分関係で送ってきた。

まあ有り体に言えば踏み倒して来た訳だが、それが勉強してきたはずの人間に伝わらないのも中々皮肉が効いている気がする。しかも剰え政治家になろうとする人間が言ってしまうのは白痴化の病理さえ感じさせる。

努力が報われるかどうかのみを頻りに他害を交えて愚痴る人間の殆どは歴史感覚が欠如しており、国造りを理解していない。自分の衣食住を用意するのだって一日分の時間を費やすには十分なタスクが有って、そのタスクは報いを約束されてはいないがせざるを得ないヒトとしての業に似た労働になるはずだ。

この労働の質的感覚は親から子への継承があれば難題にはならなかっただろうが、継承は各家庭が体系化している訳ではないので苦労無く分業でコミュニティ構築を免除され、核家族化をしながら学校での勉強に明け暮れればいつの間にか独力でも世渡りできると錯覚に酔うのは想像に難くない。

実際東京などに住んでいる都会人の多くは歴史的血脈を継承せず、孤独に浸る状態を「自立」と表現する事が多いようだがそれこそは出羽守言うところのムラ社会的同調圧力を生むのに実に良い苗床となっている。当然だがコミュニティの将来を犠牲にして自立というファッションを演じる人々が濃縮されて行くのだから生活などまともにできるはずがない。

ヒト1人ができる事など高が知れていて、助け合うべくコミュニティを作るのだからコミュニティ内での不遇と、衣食住の獲得は分別を付けなくてはならない。そして自分が受けた不遇を自分が成り上がった暁には仕返してやろうと考える長をコミュニティの構成員がどう感じるかは一目瞭然だろう。コミュニティの将来を思うなら踏み倒し文化はよした方が良い。

擁護できる部分を強いて探すなら確率としてはある種のトラウマに近いのが自己責任論なのだろうが、トラウマを根底に据えた自分を振る舞いの基準に定めるとトラウマを理由に可変性の少ない性格を演じなくてはいけなくなる。その在り方を問う時間を政治活動に充てるのは筋違いもいいところだ。

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