2国分の言葉について。雑記。

英語が大枠の共通言語的扱いをされて、言語を生活の為に増やそうと多くの人が学んだ。しかし基軸通貨国としての立場とは裏腹に、盤石どころかその複雑な金の流れと価値の盛衰に数々の憶測と慢性的な不安を醸し出す要因ともなった。当然ビジネスを目的とした話者は市場価値に資さないのならと、これから踵を返すような事もあるかもしれない。

 して、そもそも言語をお互いが理解し合う上で言葉は所謂自然で、つまりはネイティブであることが重要だったのか。「金銭の遣り取りが有る契約に臨むなら、独特の表現と厳密な定義が欠かせない」と安直に考えれば理解できるかに思えるが、それは前提として速度と引き換えに保証を棄てているだけに過ぎない。

 資本主義下に於いて借入や融資は速度に関わるので生命線とも言える役割を果たしている。けれども生活を営む上で生物的ヒトのセンスに基づいた誤解が生じた際に「合法的に成立したので受け取ったものは返さない」が通用して、しかも公権力の名を冠した暴力的特権を持つ第三者がマニュアル対応をするとなれば、法律に精通した者が多くの人間に影響を与えられる事になる。

 その実行可能性について探求する事は今回の主旨からやや逸れるので避けようと思う。ここで言いたいのはお隣さんがそういう奴の場合、上手くやっていけるかという点に収束する。これは自他共に言える事で、人間の存命期間に為されるちょっとした失敗が許容されず、またそれをただ待ち続けて足元をすくう者が多大な利益を得ている場合、弱者狩りを行う者とは可能な限り共同生活を拒み、距離を取る事が合理的生存戦略となる。

 この順序に倣えば「遣り取り」から「融通」を抜くと、闘争か人心荒廃を招く事は想像に難くない。友好関係を破壊すると賢さの証明になるなど生活を営もうという生物の態度としてはかなり歪であろうと私は思う。

 結局ビジネス+速度は成立するが、生活+速度は成立しない。そしてこの2つの組のどこにネイティブという概念が位置するかと考えれば、ビジネスに含有される程度の概念でしかない。それ故に正確な自然さという不可思議な代物が生まれる。

 また、言語は割合と雄弁にその人間の来歴を物語る。一国分の言語を網羅する国民は実際には三分の一もいない。多くの人間は母国語の一部領域を定型文も交えながら重複させて使っていて、地域毎にネイティブさが変わったりする。言葉はそのまま嫌でも関わってきた人物の人格や故郷の風土を明示させる。

 したがって最近のチャットAIの登場が仮にこのビジネス速度からの開放を成功させるなら、丁度辞書を持ち歩くように何らかの形でAIを持ち歩くようになるかもしれない。そうなれば逆説的だが、母国語の駆使は容易になり、自己表現に一層磨きがかかることだろう。これは速度への渇望というよりは精神の目視、そしてその先の合一に対して無意識に秘められた強烈な羨望が顕す結果に過ぎない。最後には翼を得て自由への邁進は加速し、精神的にも物理的にも繋がっていられる距離は遥か彼方の太陽系を超えるに違いない。

 仮にネイティブ性を詩的精神伝達率と定めた場合、翻訳という行為そのものは当事者同士でしか成立しない。翻訳される言葉が第三者へ伝達されにくいのは、言語の成立にあたって想定されてこなかったからかもしれない。勢い逆説的だがビジネスモデルに沿って成立したネイティブは、だからこそ小難しくて専門用語に塗れる。契約書は第三者の存在を幾分か想定されて成立しているからだろう。

 語彙の貧富やTPOの是非は伝達における役割の極一部で、矢張り言葉は違えど翻訳を本気で行うなら共同生活をせねばならないように思う。拙速な翻訳が文化を芳醇に醸してくれることはまず無い。相手の思考を決め付けるという病的成立を達成した言語は私が知る限りでは存在しないから。

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