健常者支援について。雑記。

 ややお粗末な二番煎じ構成になるだろうとは思うものの言葉の密度・濃度を確かめる必要がある。野山でも自らの思弁を尽くせるほどでないと美味しいの一言さえ毳毳する気がしている。

 この文章は学問的正確性を一切放棄しているので悪しからず。



 「健常者なんて本当はいないのだ」のような枝葉末節の話を持ち出す前に、あらゆる基準や目星を無数に設けておく必要がある。この言葉が単に美辞麗句で終わるのは議論や話し合い行為の本質的な価値を損なう恐れを含んでいるように思えるから。

 健常者の脳を見せてくれと言われてCTなり写真なりを1枚出すべきか。平均的にはどれも同じと言えるだろうが養生という視点からは褒められない。例えば脳の内的な疲れや初期の不調は写真よりも語らう事で発見に努める。しかし私達の文明は過去の人類の骨を見て当時の文化を語り、しきたりで揺れ動く不安定な個々人の性格が現代にまで名残り得るのだと提唱する。実際勘案すべき事項の1例である地理的条件と人間の性格は殆ど相関があるとは言えず、社会的潮流が一定の傾向を惹起するにとどまる。この面に於いては人類が真の意味で「未開」の内情を咀嚼できているとは言い難い。

 人間の体は恐らく本来ならもっと多動傾向があり、びんぼうゆすりや痙攣に似た動作が有っても不自然ではない。他の動物と比べてみても人間がいかに情動を抑圧しているかは一目瞭然であるが、社会的に迷惑のかからない態度と理性を切り分けることで極限られた範囲の動作したいという衝動を有効活用できるケースも少なくない。

 筋肉は量の多少に関わらず頻繁に軽く伸縮していた方が健康的であるのは子供の寝相が時折アクロバティックである事からも垣間見れる。しかし計画的に全身の筋肉を動かすよりも取り留めなく去来する衝動の導きに任せた方がより効率的で、丁度肩がこったときに理解できるように必要最低限の回復を行うように体は常に訴えを起こしている。

 他方、この小さな衝動と動物的本能の切り分けを上手くしてみせる人間が少ないのも事実であろうかと思う。社会的には常に体のあちこちを動かそうとする人間を避ける共通概念を有するが、理由は学問的に言う野生下での警戒とイコールであろうか。

 人間の野生下でも意外に例外は存在している。どんなに不審な挙動であろうと新天地を求めて移動した際には現地民と折り合いをつけねばならず、交流をしようと思えば警戒していても接近は避けられない。警戒とは先んじて知ろうとする行為であり、必ずしも攻撃と防御といった安直な二項対立のみを意味しない。でなければ野生下の生物が幾つかの基準で警戒する事の説明はつかないように思われる。

 であれば警戒されるとは生物としての受容姿勢の一種と見做すことができるので、今度は警戒解くための行為の位置付けを説明する必要がある。100%そうであるとは言わないが、我々人類は言葉で情報を交換する以上沈黙の与えるダメージは今よりも昔は更に大きかったかもしれない。危険人物ではない証明はより素早く会話へ繋げる工夫の事後的光景かもしれず、ここにも矢張り受容姿勢が発見される。

 補足としてあえて記せば、予め同胞を騙そうと思った個体は会話以前から画策しているケースが大半を占めていると仮定した場合、警戒をどれだけしようが走行速度や膂力によって被害を受けるのでどちらにせよ無力な個体のヒエラルキーはある程度固定される。敵と談笑する悪役は劇的であるが不自然に変わりはない。

 では生物的には捕食者から逃れる本能を保持して尚且つ同胞に対してこれだけ許容範囲の広い人間が、警戒される事と誤解を解く事のどこに問題たりえる要素を見出せるのだろうか。この仮想敵対はもしかすると無意識に信頼をおいた隣人の一言を鵜呑みにした結果なのではないか。

 自宅で貧乏ゆすりをする事や交通を妨げない形で道端にいながら運動する事が許容されない程我々は狭量な生物だったのだろうか。立派な運動着に身を包む事でデザインから意図や目的を伝えなければ即座に群れから追い出すような精神的に不安定な存在になったのは本当にマンモスを追跡していた時代の因子がそうさせるのだろうか。

 そうは言ってもほら、発掘したヒトの頭蓋骨には殴られた痕跡や鏃が作った溝がこんなにある。だから人間も弱肉強食で生きてきたに違いない。

 確かにヒエラルキーの低い個体は常々淘汰圧を甘受するしかなかったかもしれない。しかしその多くは社会性がある程度まで発達した段階での出来事で、集団生活でのトラブルは珍しくない。それからここには野生生物とは違った特色がある事にも留意したい。それは交渉の有無と言える。

 お互いの意見を通そうとすれば当然どこかで食い違いが起こって刃傷沙汰にもなるだろうし、その是非は良くも悪くも集団全体で乗り越えようとするだろう。そうなれば大規模な戦争へ至る事は想像に難くないし、闘争に用いる道具は他の生物と同じく生活や捕食対象に特化した道具をただ流用している点も自然な形であろうと思われる。

 人間は動物と違って必要以上に生物を殺めると言う言説もまことしやかに語られて久しいが、餌をあげすぎないように注意せねばならない生き物がいる事を考慮すればこれすらも人間社会に起因していて、あらゆる条件に左右されたヒトの本能の描写をしている訳ではないと理解できる。

 このようにヒトは集団生活の中に制度を設けるだけで無数のトラブルを生み出しており、正しい幕引きを誰も知らない。更に順を追って言えば四角四面に制度を守る為には相当な知能と多面的な理解を必要とし、見識の拡大は、つまりは許容度の増大は群れの増員を意味したとすれば、時として制度の無視が称賛され、時として制度の厳守が叫ばれる原因が今もなお拡大を続けようともがいている最中だからだと考えられる。

 ただし、これらは狡賢い隣人の声が無い場合に限っての話である。

 たった1人の狡賢い隣人は仮に腕力が強いと言えども人間1人が人間10人を淘汰できるなどとは考えにくく、同じく1人で10人分の食糧をたいらげる事も不可能だろう。にも関わらず、この隣人は国家の王座を常に虎視眈々と標榜しており、戦争や貧困や病気の流行で大衆の感情が波立っているのに乗じて玉座を我が物として屈強な個体を侍らせることに成功している。

 私達の現代社会にある制度設計を修正したい場合、コミュニティを一度小分けにするだけで随分と改善は見られる。これはコミュニティ内部の声が反映され易くなる他、個々人の得意分野や産業の違いに適応しやすくなるからとなどの理由が考えられる。当然コミュニティを分割するという事は権力の分散を意味するので、玉座にかまえる人々は頗る面白くない。



 ここでも補足を加えるとすれば賢しらな口上として「ムラ社会」という概念が語られる事がある。ムラ社会の閉塞感はムラ社会全体の知的・技術的蓄積の問題であり規模は全く無関係である。所謂「未開文明」にはただ習慣の延長上に役割があるだけで特化しないという光景はありふれている。1人が1つだけ役割を担うというのは現代人の感覚がそのまま間伸びしてしまっていて、あまり現実的とは呼べない。

 また、家父長制や男尊女卑的価値観を論って野蛮だと断定する前に身体的性差を理由に役割が偏る事や、現代社会以上に小規模コミュニティに於ける人間1人の発言力の強さなどは軽視されるべきではない。途方もない地平線や水平線が身近な環境でムカついたから出て行くという決断ができる個体は却って正常と呼べるだろうか。人類は新天地への大移動にもやはり小規模ながら仲間を引き連れる傾向がある。

 ムラ社会が閉鎖的であるのは何も習俗だけの話にとどまるわけではない。正常ゆえに公平化を図るし、正常だから欲求に突き動かされて理不尽を発露してしまう。本当に話し合って解決を求めるなら個々人の発言権を強める小規模に別れてムラ社会に現代の知識を持ち込んでみる必要があるが、議論の相手が知り合いなら発言には山ほどバイアスがかかるのが理解できる。争いを防ぐためには個々人の要求を逐一満たしていける訳でもないはずだ。

 現代では殆どのムラ社会は解体されたが、ムラ社会での問題は人間に依存して引き続いている。人間が環境によって性格を変化させられる事はほぼ無く、人付き合いの困難さに収束すると言える。それから意外にも仕事の専門度はマチ社会よりムラ社会の方が肉体労働や狩猟採集の比率が多いので低くなりがちで、順って発言力の違いと能力の結果的均一化と身分差の縮小から今で言うグレーゾーン的人間であればマチ社会よりも淘汰圧が低くなる場合もある。

 巷で言われるような言説で発達障害者増加の要因を野生下での淘汰圧が文明の発展で減少した事に求めるケースも散見されるが、淘汰圧を重視するなら野生下で活発に動ける若い個体の方が危険に遭遇する確率が高まるはずであるので、知的な課題が無い以上淘汰圧はほぼ均等と考えても不自然とは思わない。ましてやそれが女性であれば尚更。



 仮想対立に話を戻す。私達は生活を送る上で無意識に他者に無害性を証明しようと行動するのだが、この証明は万人が万人に対して行うのではなく、あくまでメディアで囁かれた不穏な噂で精神的に不安定になった時と独自の自閉的文化に基づいた形で行われる。

 この前者のメディアこそは狡賢い隣人である訳だが、そこは後者の自閉的文化から発生して一連であるという認識から後者を優先的に記す。

 ここで指す自閉的文化はなにも自閉症という前提を意味しない。あくまで初めに書いた通り健常者を少し違う角度から認識するためのツールとして使用するので、学問的定義よりも字義的文脈を重視する。

 所謂自閉症(ASD)を扱う際には「日常的に支障をきたすかどうか」という普遍的課題の判別法の他に、身体の文字通りの発達度合いを注視する事もある。ところが自閉的態度の対になるような解放的態度が比較対照を行う事で見出せるかと言えば甚だ疑問だと感じる。

 情報伝達の不得手を自閉的とするなら基礎学習の共有に裏打ちされた情報伝達を解放的とするのは強引で、人間は前述の通り見知らぬ人間と会話を好んでしようとはせず、むしろ見知った人間を選んで交流を図る事が多い。

 これはリスクマネジメントがどうのといった瑣末な話よりも、ヒトという生物があまり交流を好んで選択しない傾向を表していると私は愚考する。恐らく群れる事と生態に表れる色濃い嗜好は然程相関しない。肉食だろうが草食だろうが群れるという行為は共通して見られ、チーターのように最近になって群れるようになる動物もいる事から、生物は弱いから群れるのではなく自己の生存が肯定されるならどちらでも構わない場合が大半だろうと思う。

 そもそも「最初から」生存に不利な生物というファンタジーはかえって証明が難しく、隔絶された島などではヒエラルキーのどこにいようが人間にとって無害な生物の個体数は安定する。然るに弱いからこその生存戦略という語り口には一考の余地があるかもしれない。

 また、事後的・一時的に群れる生物として馴染み深い鮭や蚊などは産卵や交尾の時期に依存して結果的に大群になる事がある。それぞれは協力体制をとっておらず、内部では熾烈な争奪戦を繰り広げる一方で天敵に的を絞らせないという利点を全体に付与するのでヒエラルキー全体、乃至、種族全体で繁殖を支えているとの解釈も可能ではある。そうなれば血統や遺伝的枠組みを超えて同胞を養育する行為も矛盾ではない。なお、学問的定義での群れは無視する。

 ではリスク管理以外の目的で初対面を回避する傾向の原因は何かと考ると、矢張り生物的限界が許すならヒトは独立を求める生態を持っているのではないかと私は考える。

 私が見て来た中ではいつの日にか叶えたい自由への羨望が絶えず多くの人々に根付いていて、だからこそ日常的に使用する知識は質の優劣を気にしないし間違いを発見しても解決策を見出そうとはしない。問題を解決するのではなく交流していく中で自分の願望と無関係な事柄で労力を消費したくないという、ある意味で自己表現への過集中が一生を通して激しく渦巻いているように思えてならない。

 こうした根源的な自閉的文化がヒトには根付いていると仮定した場合、最早対概念として解放的を相応しい対比例と見做すことはできなくなる。自閉的文化はその姿をヒエラルキーの中にのぞかせる事も屡々あり、ヒエラルキー上位の人間は凡そ同等と思しきヒエラルキー層の人間に偏って友好関係を築いたりするのが典型と言える。

 これは選民思想や封建的で野蛮だとされるが、本人達はそのつもりが無いかもしれない。それが効率的で賢い生き方だと信頼を元から置いている他者に言われた時にはその言葉が容易に浸透して習慣化するが、彼らは他者の視点に立つという事が難しい。
 
 彼らはヒエラルキー中層に位置する人々がが歩んできた人生を語られても同情の仕草すら既に儀礼化してしまっていて、仲間内の賞賛だけが自己評価を裏付ける要素として有力視できる。このように交友範囲が偏る原因は思想よりもヒトの自閉的文化がそうさせているとも解釈できるし、これはヒエラルキー上層の人間だけではなく中層でも下層でも同じ現象は観測できる。

 既述した通り人間は仮令健常であっても正常ゆえの受難を生むのだが、仮に上層と中層を健常者だと位置付けるとするとこの自閉的文化がある限り、制度設計をまともに作り直そうとは思えないし即席理論を用いて世間話をする事もやめられない。ここで症状としてこの構造を見た時にお互いを理解する努力を続ける事自体に無理が生じていて、自閉的文化は自閉的であるが故に真の意味で互いを理解できない宿命的特性をもっている。

 富裕層は肉体労働などしないしそれが賢いと信じている。中流階級は自分達が懸命に工夫して程々に頑張っているまともな部類だと信じている。貧困層は自己の運命を呪う。

 差し当たって簡便に済ますべく経済的ニュアンスで分類をしてみたが、その他の分野で分類しても相似すると私は考えている。

 そして実際に、中層のまともな労働者兼健常者として福祉にまつわる人々が下層の人々と関わった時に怠惰で無価値に感じてしまうケースが生まれる。丁度上司が進捗状況ではなく部下の手の動きや雰囲気や言葉遣いだけに目を光らせるように。

 上層、中層、下層の接点では絶えずこの自閉的文化が火種となっており、これは啓蒙や教育で拭えるレベルの動向ではない。だからこそ初対面にも見知った相手にも同じ比率で話しかけないという現象が起こる。もし急に話しかけて不審だという価値観・感想があるなら上層か中層にいるし、そう感じたほうが生存率も高い。下層の場合は上手く対処できないし、だからといって上層や中層で作られた自閉的文化をそのまま真似る器用さも無い。だから健常者とその他に分類ができる。

 改めてこの意味で「健常者なんていない」「障がい者なんていない」というなら二重性を主軸に据えれば納得できるが、むしろいない事が最大限リソースを割いて理解を示す要点ではないかと思い予想と邪推だらけの駄文を書くに至った。

 そして上記の駄文を前提にタイトル通り健常者をどう支援するかという話に繋げるなら、症状の理解へ向けた議論も重要だけど健常者も単に上層・中層の自閉的文化に許容されているだけで課題は変わらないという点を踏まえて、自慢できる自閉的文化圏を自分が属する層で涵養してみたらどうかという思いつきが私にはある。

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