損得病と自然観について。日記


 普段から「生態系サービス」という語句を用いて生物多様性の重要性を実益ベースも踏まえて語っている人のSNSで人類の存亡についての呟きが有った。人類は1番害悪なので人類が滅べば万事解決、という極端な意見に常識的な少々の苦言と現場の共存精神形成の難しさを滲ませているものだった。

 私的な見方としてはほぼ必然の懊悩に思えた。そもそも何故生物保護界隈に実益の話を持ち込むかと言えば無意識を意識的にする目的に加えて、活動資金を行政から得るアピールチャンスが来たらここぞとばかりに実益を見せると成功率が違ったりする面も薄らあるらしい。しかしこれを慣行化してしまうと予測の域を出ないが、損得の予想不能性を常々言い続けなくてはならなくなるように思う。

 ところがこのジレンマを抱えながらも、複数の生物を題材にしてネット上で活動されている方々を見ていると経済的な矛盾や政治的主張は何か大きな事態に置かれない限り一切発言をしない。のみならず、最近のアオウミガメの被害について地方財政の脆弱さを語りはするものの国家の財政には全く触れずに終わった動画さえ出ていた。

 私は生物保護に纏わる専門的な知識は疎か、経済や政治についても素人未満ではあるがそれでも勉学はある一定を境目に全ての分野は関連していくという事は分かる。それを日々のノルマに追われる社会人に強いるのが無理筋なのは当然ではあるが、少なくともアジア圏には自然に対する畏れを基にした生物に命を見出す価値観が有ったはずで、機械であろうと無機物であろうと「さん」を付けてみたりもする。もしもその歴史的感性が確固たる権威を与えられていれば、生物多様性の保護に対して実益を求める者に非常識と言ってなんとなれば笑いかける事さえできたはずだと愚考する。

 恐らく学問的枠組みでは進化論なりの思考体系が有って、人間以外の意思や感情の存在を取り敢えず一定の形に置いておくのだろうけど自然観が偏れば損得が恰も存在するかのように表れて、全てに序列を付けて行く病が進行する。金ごとき、実益ごときで生物を語るのはあくまで学問の範疇にとどめておくだけの分別や歴史的蓄積が生物を題材に活動する界隈では求められるんじゃないかと一連の流れを見て感じた。

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