競争原理及び淘汰についての推察。雑記。

 従来の通俗的な経済理解の基礎における競争と淘汰の概念をここではただ角度を変えて記す。

 恐らく一般的な企業等の業績などが同業種の企業よりも劣って支出と収入が見合わなくなり、営業が不能となった場合にこれを世間では淘汰の概念を用いて説明しているように思われる。だが、実際に競争原理が競争原理として現実に現れているかは微妙なところだ。

 通常競争原理と呼ばれる概念ではより良いものが残るとされるが、より良いものと経済の振る舞いは別個の結果を生む。

 たとえばA社とB社の2つの企業が双方共椅子(以下商品)と呼べる家具を作って販売したとする。仮にA社の商品はB社と同じ品質でありながら値段はB社の商品と比べると高いとすると、競争原理という概念はB社に軍配を上げるが、品質的な観点ではB社が優れていたとは言えない。B社の生存要因は主に商品の値段が大きく、その他の要因を見るなら消費者側の都合に依存する。

 もしも消費者側が遠方から足を伸ばさなくてはならなかったり、デザインやサービスに不備が見られると判断したりするなら矢張り注目は残った選択肢のA社に集中する。従って社会通念上の競争原理は成立させるだけでかなり厳密な条件を必要とする。

 そしてまた、この事から解るのは「モノやサービスの生産コストが市場への参加人数を決定する」という事だ。

 前述のたとえ話に出てきた2つの企業を流用して、更にこの2社の商品を経済的困窮を理由に購入できなかった消費者を想定する。すると椅子を購入できなかった消費者は単に商品を利用できないだけではなく、何かの店を開いたり、体調に支障をきたすかもしれない。こうなると消費者でいられなくなるばかりか生産者側に回る事さえできず、経済と社会から遊離してしまい、人々は失業者としての振る舞いを強いられる。

 この遊離現象の延長上には文明の技術を十分に応用させた生産活動に不可欠なモノやサービスを何らかの方法で入手するために、手段の違法性を高める事さえ予測可能だろう。それによって数世代に渡って恩恵をもたらし得る希少な自然の資源が狙われるかもしれないし、それを厳罰に処するだけでは言わずもがな不十分だ。だからここからは手入れをいかにすべきかを考察する。

 MMTの枠組みで語られている就業保証(JGP)がこの失業のメカニズムに寄与するかと考えると少し物足りなさを覚える。確かに経済の安定性は実施しない時と比べて格段に改善されるだろうが、自発的失業者の存在は矢張り進展を見ない。自発的失業状態が人権に依る保証を得ていたとしても、何をもって生産活動とするかという題材と、その生産活動で生活が可能であるかという題材はそれぞれ違いを持っていると思われる。

 生活必需品の入手にあてられる費用が収入を上回る場合、どんなに元気な人間であろうとも生活はできない。この前提から稼得を上げろと労働者に鞭打つべきなのか、政府が安価に商品を販売できるように制度を充実させるべきなのかを一先ず考える。

 現在島国日本の様子を見るに職業の大半は民営であり、国営の企業や組織は極狭い範囲に限られている。然るに民間人は労働者となる前に労使交渉を行うべきだが、この交渉の席は法律によって保護されていない。公募した労働条件は変化に乏しく、労働者は雇用主に対して至って無力な窮状にある。ここで、ならば給料の高い職へ移れば良いと意気軒昂する人々も散見されるが、その職は個人の稼得を大きくするものの市場を腐るまで舐る事しかできない。

 第一、1つの仕事や1つの企業に必要な人員は無限ではないので、ここで労働者としての優劣を付けさせても全体の市場規模の変動はこれっぽっちも恩恵をもたらせない程に小さい。単純に高品質のギアで駆動する機械を低品質のギアで駆動させられないが、低品質のギアでも駆動する機械に高品質のギアを使用しても特に問題が起きないといった程度の話だ。

 そして労働者競争で後れを取った労働者は稼得が減るのだから、当然高額の商品など買う訳がない。この収入減の結果、経済はやがて停滞を迎える。ここで時折海外に打って出ろとか実体経済から分離した投資や投機が最善策との主張も見かけはする。仮に投資で減収した労働者が減収前かそれ以上の収入を得たとすると、通貨価値は約一人分失われる事になり、更に投資で得られた収入を消費に回した時に約数十人分の通貨価値が毀損される。何故なら通貨の価値はそのままイコール生産能力、即ち労働の価値そのものに裏付けられているからである。生産を行わずに消費のみに傾倒した場合、通貨は商品を離れて巡るのでモノやサービスの量と通貨の量に不均衡が生じて、ダブついた通貨はインフレ圧力をかけ始める。

 また、海外へ行こうとも労働者競争なる狂気を静めなければ停滞は約束されたようなものだ。畢竟、労働者にいくら鞭をくれても経済のメカニズムは微笑み返してはくれない。

 差し当たり政府が出来ることは、労働者が生産能力を発揮できるように生活必需品等々を買い取るか補助金で値下げを図る事に終始するのみだろう。だからといって保険のように料金の徴収も必要無い。あくまで求められるのは生産活動のハードルを下げる事だけだ。

 その上でなお、自発的失業に従事するという人間がいるとするならその人間が日々どれ程無意識の内に生産活動を行っているか観察して統計でも取れば、生産物を買い取るという行為の困難さが身に染みるはず。巷のマルクス的経済談義では、なんでも資本主義では全てが商品化されると著書に書かれていたらしいが、それならば家事やサービス残業で労賃が発生しない現象に説明が付かない。私的にはむしろ逆で、全ての労働を買い取る事こそが理想像だったのだと思う。

 話を纏めると、人間をある程度まで教育し、ある程度まで自由な境遇に置いておけば勝手に生産活動を始めるので、国家はわざわざ競争原理を重視して市場を狭めて停滞化するメリットはほぼ皆無だし、生産物を買い取る手段の少ない国家は本質的に貧しい。

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