家庭内の思想と不登校

 発達障害児が不登校気味なのは恐らくよくある事で、症状(無気力、慢性疲労、フラッシュバック、昼夜逆転、過集中、etc)的な要因と一般的な要因が見られると思われる。

 体験を軸に書くなら症状の軽重は薬でコントロールできても一般要因は病院に幾度行こうが手が入れられる事はない。ここで言う一般要因の1つである家庭内の思想について今回は少々紐解きたい。

 よくやりがちなのは不登校気味な段階で保護者なり兄弟姉妹なりの誰かが、本やネット記事を通じて思想を外部から持ち込むという行動だが、見るべきは寧ろ元々家庭内に存在した思想の方であろうかと思う。一般にポジティブシンキングなどは全肯定されがちだが、不登校の場合それ自体を問題と捉えるかどうかで思想の輸入行為に発展するか否かが決まる。要は「解決」を渇望するかどうかだ。

 解決を望めばこそ「今は気力のチャージ期間」や「今の時代は学校以外の選択肢も」といったフレーズで、無意識に子供との取り引きを始めてしまう。つまり本意ではなくとも「経路は譲歩するので結果を下さい」と言って常にリクエストを発信する事になる。

 これはどの家庭でもある程度普遍的に見られるように思うが、この関係は平等とは言い難い。大人は既に家庭を維持出来る社会的ステータスを得ているが、子供はまだ得ていないので社会的価値の有るものを差し出せなくなった時、譲歩を得られなくなった子供は手元の0と自己価値をイコールで結んでしまう可能性がある。これは時間を経るごとに進行するものなので、仮令大好きな家にいても子供は常に緊張状態に置かれて、遂には個室から出られなくなるケースも少なくないと愚考する。

 行動の面から言えば解決を本当にしなかった場合の悲惨な未来を語り尽くす前に、もしも家庭内の思想に由来する取り引き関係が有るのなら、先にこれを解消する方が優先されるべき事項だと思う。その関係によって子供は大いに萎縮しているので気休めにお出かけや旅行をしても、情報を柔軟に吸収できなくなっている可能性があるからだ。これでは仮令ドンピシャで子供の熱中出来る事、才能を発揮できる分野の物事を目の前に持って行っても好きだという感情さえ湧いてこない場合が有る。

 取り引き関係を無事に解消できたら次のステップとして、子供が好きな物事が金になるかどうか(乃至、損得の均衡)を重視し過ぎない事が望ましい。

 一昔前くらい前には発達障害の過集中という特性だけを切り抜いて、不器用さや感覚過敏・鈍麻などを無視して賭け事のような扱いをする風潮も有った。だが、誤解しないで欲しいのは好きな事が得意になるには、健常者であろうと発達障害者であろうと練習が要る事だと思う。ぶっちゃけ収益に繋がるかどうかは広告次第で決まるようなところもあるので、なんであれ品質を安定させないことには続くものも続かない。


 この2つを試した上で不登校からの就職・就労のルートを改めて検討しても遅くはないと私は考える。確かに保護者としては症状への応対や見通しが立たない事への不安が常に視野に入るのは健全なのだが、個人的には固有の症状と普遍的な思想の混同は二次障害への遠因だと考えているので、利用できる情報の一端になれたら幸いに思う。

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