生命の探索について。雑記。

 暇を持て余した挙句に事欠いてダーウィン進化論に再度首を突っ込んでいたが矢張りどこか歪な風呂敷に見える。環境に対する適応力を言う前に変化の節度について論じられる向きが見られない。

 生命の痕跡がどこかで完全に消えていた場合、恐らく人間は根底からの誤りに嫌でも気付かされる羽目になる。自分達の技術力に問題がある限り実際の進化過程など解るはずは無く、しかもそうして意図的に技術を向上させる事は意図的な進化と適応的変化を包含し得ると知った時、淘汰の概念を矢張り修正せねばならない。

 「意図的進化が適応と呼べる場合、環境に依存して生存を選択する余暇を得る。」...とまぁ、多分こういう具合の定義に置き換えられて、諸行無常の二の舞に落ち着くのかもしれない。

 個人的に書くのは抵抗があるがどこまで行っても原初の意図の存在を無視する事が良い方法だとは思えない。極限の環境で生命を見出したなら生命の幅に文句はつけられないし、生命体を構成する物質は広大な宇宙規模で見ればありふれている事が大半だろう。

 私の無知で勝手な主観では生物は基本的に天敵を想定した作りにはなっておらず、ほぼ9割9分が捕食対象に特化している。体の特徴を理由に食の指向が決まる生物より、地衣類や藻類などに見られるように環境を自ら選び、そこにあるものを吸収するべく体を変化させている事が大半だと少なくとも私には見えている。

 そして何より環境に適応するとは言うものの生物は常々僅かに生来の能力を温存している事が多い。

 私的にはこれさえ引き出せて初めて立派な動物福祉だとは思うが、例えばイルカやシャチは水族館でのショーにおいて不必要に高く跳んだり態々抵抗の大きな泳ぎをして観客に向けて飛沫を立てる事ができる。これは野生の観察では中々見られない行動で、こういった余剰を使って恐らく少々の環境変化なら適応してしまえるんだと愚考している。

 無論人間の時系列信仰がゲームとルールを作り出す事で勝手に動物の能力を引き出す努力をしたという要素は無視できないが、他にも親子間での行動凡例の伝達や臭いの記憶と見た目で餌か否かを判断するなどはゲームを伴わずに忠実に履行される。

 こうした生命の余剰は身体を損傷するほどの環境変化には適応できず、やはり人間と同じように傷病に苦しむ。しかし補助的には自然治癒力がそれを補える構造となっていて、その治癒速度は健康状態で微量な変化が見られる。

 この治癒速度が恐らく根源的な生存の条件ではあるものの、動物は少しの例外を除いて自然治癒力の強化へ向かう事はなかった。外見を幾ら時間次第でいくらでも変化させられるとはいえ、その歳月の内、数回起こる治癒速度を超える損傷については不問とした。

 最近のダーウィニズムでは生命は目的無く偶々生きているといった趣旨の説明が主流であるそうだが、治癒速度が必要となった経緯も偶々なのだとしたら最早宇宙創造が神の御業だと言っている状態と遜色はなく、凄まじい確率の話でさえ聖典の中に封じ込められると信じているかのようだと邪推する。

 いつだったか記憶は定かではないが、生命を構成する成分の一部であるアミノ酸が隕石か何かから発見されたとニュースで取り沙汰された。私は科学の専門家ではないので断言はできないが、上述の文脈を踏まえた素人目線ではアミノ酸が治癒を目論むかという謎があるように思われる。

 ダーウィニズムに則ればアミノ酸が生命を形成して生物の誕生へ導くのに最適な地球が偶々有ったとするのかもしれないが、人間が擬似的に地球を他の惑星を利用して作ったとしたら少々の違いで済むほどの生物になるだろうか。(※生命の宇宙起源説は未確定である)

 更に無駄な言及すれば環境に適応した生命の歴史など本当にあったのだろうか。実は環境などどうでも良くて、生命は空間に充満していて種の様に時期がくれば誕生するような状態が地球外ではセオリーかもしれない。

 もしこの妄想が前提にあるなら我々は生命の中に生命を抱えているという多重生命体であり、淘汰されたものなどただの1匹も存在しないのではないかと夢想する。

 ともかく原初の生命を科学的に見出す技術が無い限り、意図的進化はあり得ないと断じるのもいかがなものかと思わずにはいられない。

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