安楽死議論に見る洗脳手法。雑記。

SDGs然り安楽死の議論に度々挙がる「滑り坂理論•効果」等々は政治的にもよく使われる洗脳手法である。

仕組み自体は単純で、先ず「理解方法」を提示し、問題を仄めかし、最後に被洗脳者に結論を出させるという極ありふれたものだ。なんとなればこれは三段論法に近い。

例を挙げると、

1、戦争は斯くして凄惨である。

2、専門家による見解はこうだ。

3、この課題は未解決だ。

とこういう具合だろうか。

嘗ての釈迦の言葉を借りるなら「言葉は解釈する側に利がある」と言える。

さて、題名に「安楽死議論」と銘打ったので一応そちらへ水を向ける。

日本では安楽死導入に慎重な向きが有り、医療の名だたる専門家の多くは反対を示していると私的には解釈している。その論拠には「同調圧力が高まる」だとか「一時的な気分でしてしまう」といったものが多かったように思う。

(因みに愚にも付かない意見として「現状では世界的な基準だと医療行為に該当するので制度が導入されても健常者には意味が無い」といったものも有ったが、現状を変える議論で現状を朗々と吟じるのは国の衰退を良く写していて枯れ木も山の賑わいといった感だった。)

中でも取り分け御題目として唱えられていた定型文に先程来出ている「滑り坂理論」が多かった。なんでも滑り坂理論に拠れば「もし、最初の一歩を踏み出せばそれに続く過程に巻き込まれ、徐々に乃至一気に悪しき結果へ至ってしまうのを避けられない」という理屈らしい。これだけの主張に「滑り坂理論」と大層に命名するのは御衣勝ちと言う他ない。理論というより想像とか妄想と似ている。

この理論の問題点は幾つかある。

第一に、これは怠け者の免罪符であるという点。

安楽死認可の基準がスライドしていくも何も困窮者の支援なんか日常眼中に無い連中が我が身可愛さに同調圧力を回避したい一心で唱えていると私には見える。同調圧力の利用者に指をさして批判するリソースの債務者が論題に上がらないのは支払う気など更々無いからだろうという邪推も浮かぶ。

第二に、この理論は寧ろ同調圧力をかける側に有利であるという点。

この理論はアダム・スミスの神の見えざる手(※文脈の解釈には諸説有り)のような何か強大で抗いようのない人間の本能が社会という箱庭で自動的に機能するかのような説明になっているが、実際はスライドさせたい人間は十分故意の決定を行うのだからこの理論を法的聖域にあらぬ信憑性を振り翳して適用させた瞬間こそが真の滑り坂の第一歩である。

第三に、滑り坂状態を解除する方法や避け得る知性を有したヒトの事例又はモデルが提示されていない点。

先述した通りこの理論自体は妄想で、避けた未来を事後的に知る事は不可能であるのにその事を無視して、日本で言えば地震の予言をしておけば当たるのと同じで滑り坂理論の意訳を試みれば「人間は愚か」程度のポエムである。

こうした穴だらけの欠陥理論が知名度を得た背景など知りたくも無いが、自然界における擬態は種の存続を主目的と考えれば比較的注意が散漫な個体や目の悪い個体を欺ければ少なくとも絶滅を避ける有効な手立てとされるように、恐らくよく考えもせずにHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)の概念を鵜呑みにした個体に近い能力値の人間が社会というコロニーに持ち込んだのだろう。

このことから学べる事は理屈など無くても人は騙せるし問題の先送りは流言飛語の発生源に近そうだという事だろうか。

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