優しさとは何か。雑記。

ヒトの社会的な習俗で言う「尊厳」や「倫理」なるものを身近に覚えるには大前提として精神的な自立が欠かせない。

ここで言う精神的な自立とは「自らの選択の責任を自分に求める能力」を言う。これが昔なら武士道などに喩えられて、詰まりは自分の限りある時間•命をどちらへ振り向けるかという「身の処し方」を原理にしている。

この選択への責任を取りに向かう姿勢が何故尊厳に繋がるかというと理由はシンプルで、尊厳を知るには精神的な自立が必須で、精神的自立の為に選択の重要性が関わるからだ。

大抵決まり切った世間の文句では尊厳は相手が主体になっているが、相手が無条件に持ち合わせているものをこちらが操作できるはずはない。そして実際もそうなっているはず。けれども昨今の金持ちの道楽紛いの裁判ではしょっちゅう尊厳が損なわれている。これらは実態を誤解しているに過ぎない。順って法律の文面から精神的自立は完全に欠落した概念であろう。

精神的自立が損なわれた人間は自分の命を守ろうとするが使おうとしないので、外見は生きて健康そうに見えるが中身は虚ろでただ腐敗を待つ萎えきった心臓が最期を待つのみになってしまっている。そして教育過程で得た知識が悪く作用して自己防衛の手段と他責の手段が綯い交ぜになる。

悪い作用とは過剰な損得の崇拝である。

「得を取った方が賢明で損を取るやつは馬鹿」という概念は当世風に変換すると「理論的」となる場合がある。その最たるものの一例はトロッコ問題だろうか。人数か命の質かという問いが人間の本性を暴いたのだと欣喜雀躍する人間は多いが、いざ現実では傍観していればその状況は傍らの事故以上の意味を持てない。そして事故など複雑な因果の結果なのだからそれを選択と称してしまう時点で不幸アレルギー、詰まりは損の忌避だという憶測ができる。

そもそも、地球に「約束された未来」など人類史以前の初めから存在しないので「どちらが得だったのか」と考えるにあたって時間の概念を絡める方が不自然だ。意識的な選択は事後的に再確認できても時間遡及ができないのだから比較は学問的枠組みで見ても不可能だ。相対化の概念を乱用してしまっている。

約束された未来が無いから雨乞いや豊穣祈願が世界中の文化に存在する。しかし祈願の通り雨が降ろうが稲が実のろうがその現象を幸福と定義するかどうかは自分の選択で、現象それ自体が幸福であった試しは無い。畢竟、常に人間の手中に有ったのは選択であって損得ではない。

だからヒトの幸福に資するのは本心に背かない選択である。

そしてこの「選択」が「損得」よりも原始的な幸福だと理解できるなら、闇雲に生きるより完全に近い手近の小さな選択が肝心で、この選択は金銭面の交々に反しようとも俗に言うQOLを確実に伸ばす。

社会に立ち返って考えると自らの命=時間を他者への奉仕へ抛つ選択をした者の価値は事の大小に関わらず計り知れない。何故なら性格に由来した自己犠牲の賛美などではなく、何かに利するとは物質的にヒトとして存在できるに至った宇宙誕生以来積み上がった全ての因果が他者へ施しをする人格を育て、仮令人間社会的に損な役回りであっても自らの幸福をそこから見出せるだけの潜在能力と、利他を選択させるだけに十分な価値を全てに授けた万象がその場面に齎した奇跡の結実なのである。勢い、これを蔑ろにしない事が尊厳を重んじ敬意を払う事であろう。

結論、優しさとは存在の美徳と言える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?