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アセクトリカル・アロマティカ 第1話

蝉時雨が、ひたすらに背中を打つ。
美月は晴天に立ち聳える入道雲を背にしながら、足早に帰路を辿った。空になったペットボトルをゴミ箱に放り捨て、結露で濡れた手を乱雑に拭く。肩にかけた学生鞄が重い。中身を全部アスファルトの上にぶちまけてしまいたい衝動を抑えながら、美月は帰宅して早々に部屋のドアを閉める。あまりの勢いにガチャンという音が廊下に響き渡ったが、そんなことはもはやどうでも良かった。何も見たくない。ぐしゃぐしゃに掻き乱された心をドアノブに叩きつけてるような感覚もどうだっていい、何もかも。
充電していたグローブ型のコントローラーを両手に嵌め、ヘッドギアを装着する。涼しいエアコンの風と視界を覆う束の間の暗闇に、少しの間心が安まる。それからややあって起動音がした後、星々が煌めく銀河を背景に、ほの青く光るゲームタイトルが視界に表示された。
アセクトリカル・アロマティカ。このタイトルは製作者の造語らしい。造語の割には随分直球だなと思ったけど、逆にそれが安心できる気がした。
いないもののように薄靄をかけられて、夜明けと共に消えるのを待たれているような感覚はただ辛かった。
ここはそんなことがない。アセクトリカル・アロマティカは、かつて惑星旅行が盛んになり始めた時代に、異星間交流の始まりとなった場所だとされている。その交流の際に造られたものが今でも遺跡として残っていたり、逆に遺跡を街として復興し直して今も色々な住民が住んでいる。そういうわけで、暮らしている住民の姿は様々だ。いわゆるロボットのような姿の生命体もいれば、獣と人を足して二で割ったような、獣人と言った姿の存在もいる。あるいは見るからにパニック映画に出てきそうな怪獣や、エイリアンのような見た目の住民もいる。ゲーム的には自分がどういう見た目になりたいかは、その時々で変えられる。
他にできることと言えば、同じゲームのプレイヤーと話したり、ゲーム内のコインで食べ物を買ったり、街や外をただひたすら散策して、そこで何かアイテムを拾ったり。拾ったアイテムを売ることもできるし、運営が決めたアイテム同士での物々交換もできる。あるいは単純に、街の外に広がっている森と海を眺めてぼんやりしたっていい。この世界には敵と呼ばれるモンスターはいないし、不用意に近づいても来ないから。森にしろ海にしろ、そこに棲まう生き物たちはただそこに存在するものとして、住民たちと一定の距離を保って生きている。それがすごくほっとする。

『このゲームはアセクシャル、アロマンティック、両方もしくは片方を自認している人、またはそうかもしれないと悩んでいる人専用のゲームです』

利用規約に書かれた一文を、コントローラーを嵌めた指先でなぞる。星空の中で淡く発光する青い言葉たちを見やりながら、美月は宙に浮く同意のアイコンを押し、今日のゲーム設定を済ませる。ローディング画面に切り替わり、闇の中で藤紫色の惑星が穏やかに明滅する。ああ今日は星の色が紫なんだな、と思っている間に、視界に一陣の風が巻き起こった。次いで裾野に茜色を広げた黄昏の空が映り、雪造りの陶器に水晶の花を活けたような、白く高い建造物の群れが目の前に現れる。
ここはアティウ・フィラ。原初の竜が訪う、自然との調和を謳う街。
美月は近くにあった噴水の縁に腰掛けた。優雅な竜の彫刻が施された白い噴水は、夕暮れに照らされながら穏やかに水を振り撒いている。朱金の光を透いた無数の水玉が、慈雨のように澄んだ水面へ注がれる様は耳にも涼しい。水琴の音に耳を傾けているような心持ちになりながら、美月は周辺の花壇を何となく眺める。スイセンに似た、けれどやはり花弁が水晶のように透き通った花々が、そよ風に揺れていた。
銀版がささめきあうのに似た旋律を供に、宙へ舞い上がる花弁を視線で追うと、滑らかな真白の壁に表示された広告が目に入る。宇宙ガラスのアクセサリーに関する広告だ。群青に透けるガラス玉に閉ざされた空色の惑星が、幾つもの金環と極彩色の泡沫を閉ざして煌めいている。いいなああいうの、いつか欲しい、と考えている間に、その表示は夕暮れへ溶け去るように消えた。
最近ではあまり珍しいことではないけど、このゲームも広告収入で経営されているらしい。特にこういう街に住んで生活するタイプのゲームでは、ビルなどの建物に広告を表示することが多い。ちょうど現実のデパートが、壁に設置されたモニターへ広告を表示するように。
ただ、このゲームが他と違うのは、恋愛や性的なものに関連する広告の表示をしないよう、自分で選べることだ。やたらと露出度が高い女性や恋人作りを呼びかける広告が、360度どこを見ても存在しない場所を選べたのは嬉しかった。電車内ではふとした拍子にそういう広告を見てしまうのが嫌で顔を伏せているけど、ここでは前を向いていられる。
美月は噴水の縁から立ち上がった。そうして秘密の花園めいた場所を一瞥して微笑むと、街中を歩き出す。陽射しに揺らぐエメラルドグリーンの波をそのままガラスに閉ざした道は、何度通っても海の上を歩いている気分になる。
アティウ・フィラは他の街と比べるとあまり目立たないけれど、美月はここが好きだった。夕陽を梢に透かす白銀の木々の下を歩くのも、貝殻を模した真珠色の楽器たちが、広場で無人演奏している曲に耳を傾けるのも。ここに棲まうラパスの民、すなわちクリオネと人間を足して二で割ったような容姿の原住民たちが至るところで談笑している光景も、見ていると楽しい気分になる。
この間散策に出かけた時に集めたアイテムをコレクターズショップに売り、そのコインを手にサウンドショップへ入店する。サウンドショップは文字通り曲を売っている店だ。ゲーム中のフィールドや街のBGM、またはプレイヤーがゲーム内の楽器で作成した曲を購入することができる。美月はずっとオフラインモードで遊んでいるので公式のBGMだけ配信されている状態だけど、それで十分だった。
いくつか曲を試聴しているうちに、新しい曲が入荷しているのに気付く。木漏れ日に微睡む春の陽射しを、ピアノの鍵盤に織りなすような繊細さが気に入り、その曲を購入することにした。昔、現実でCDと呼ばれていた円盤と似た銀のディスクを、カウンターにいるラパスの店員に差し出す。店員は心得たように小さく頷くと、人差し指を軽く振った。すると乳白色の指先から揺らぎ出た蛍火色の光が、ディスクに吸い込まれて消える。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

ディスクを返してくれた店員が、つぶらな翡翠色の瞳を細める。背中に生えた小さな半透明の羽をぱたつかせるのは友好の証だ。NPCだと分かっていても、そうした所作に暖かな気持ちになる。
買ったばかりの曲を聴きながら、美月は路地裏の白いベンチに腰掛けた。水流に研がれ続けた滑らかな岩をそのまま設置したような簡素さだが、美月は何となくこのベンチが気に入っていた。茜射す硝子の花弁が輝きながら宙を舞う傍ら、エメラルドグリーンの清流で涼んでいる気分になるからかもしれない。
深呼吸を一つする。例えここが仮想の世界でも、ここに満ちる美しいもので、肺をいっぱいにしたかった。そうすることで、現実でもちゃんと息ができるような気がした。ひりついていた心がようやく落ち着きを取り戻す。そろそろ現実でも夕方になるはずだった。

「……宿題、やんなきゃ」

そう呟いてログアウトの表示を押そうとする。だが、今日は指が動かなかった。いや、動かすことができなかった。頭の中で苛立った友人の声が反響し、現実の自分の手が強張る。

『あいつがあんたの運命の相手じゃなかっただけでしょ。それだけで、何で恋愛できないって自分のこと決めつけんの?諦めて安心したいわけ?』

侮蔑の込められた視線も思い出し、罪人が膝をつく泥濘のように、黒々と澱んだものが喉元にせり上がってくる。胸の内で燦然と輝いていた硝子の花が、現実の吐息で一気に白く濁った気がした。美月はグローブを嵌めたままの手を、強く握りしめる。
嫌だ、ここから帰りたくない。現実に帰って宿題をしたところで、明日が来るだけだ。何の変わり映えもしない、ただ日常に耐える時間が流れるだけの。それならいっそ、ずっとここにいたい。誰もいない海の底で、貝殻に閉ざされて眠る真珠のように。
そう願ったところで、両の瞼は貝殻になってはくれない。込み上げる涙も真珠にはならず、目尻から零れ落ちていくだけだ。ついには体の底から込み上げてきた澱みが、押し殺せない嗚咽と化して唇から漏れ出てしまう。次第に夕立めいて強くなっていく涙声は、ログアウトの表示を消せないまま、美月の心を酷く打ちのめした。

(……どこにもいけない。私が私のままでいたら、ここ以外の、どこにも)

出口のない海で溺れる錯覚が、踝から徐々に水位を上げて美月に迫る。何度目かのしゃくりあげる自分の声が耳朶を打つ、ちょうどその時だった。

「あのさオリカ、あそこの川の色、もうちょい淡い感じにした方が綺麗かなと思うんだけどどう思う?」
「うーんそうだね、今のままでも綺麗だとは思うけど……確かにもうちょい淡くした方が透明な感じがあっていいかも」
「オッケーありがと。じゃまたそこらへんは後で調整しよう」
「了解!あ、あとさーミーさん、ここにも一軒ケーキ屋さん欲しくない?お店でそのまま食べられるのと、テイクアウトして好きなところで食べられるような感じでさ」
「いいね、ゼリーケーキみたいな感じならここの雰囲気にあうかも。テイクアウトにするにしても、反重力浮動式型の食器もセットにしたら、テーブルと椅子いらずにも出来るし」
「宙に食器浮かしながらケーキ食べられるってこと?うわあ見たい!絶対やりたい!」
「うん、やろう。あ、あと……私は映画館をもうちょい増やそうかな。ルーダスとスエロにはもう一件あってもいい気がするんだよね」
「いいと思う!希望も多かったしねー、設置したらポストに投函してくれた人にも喜んでもらえるんじゃないかな」

少し離れた場所から、二人分の女性の声がする。一つは椿を照らす冬の陽だまりのような落ち着いた声で、もう一つはたんぽぽが満開になった春の庭先を駆け回る、子犬めいた明るい声だ。
のんきな調子の会話に、美月はしゃくりあげながらも奇妙に思い、声のした方を振り向いた。

(何の会話だろう。NPCしかいないはずなんだけどな、ここ)

そう思っている間に、すぐ近くの曲がり角から2人分の影が姿を現した。1人はすらりとした黒いロボットに似た長身の姿。もう1人は白い犬の獣人めいた姿をしている。ロボットに似た方は確かトロボニアン星人で、獣人めいた姿の方はアーリス星人、という種族だったはずだ。アティウ・フィラではあまり見かけない。珍しいなとどこか冷静に思いつつ、すすり泣くのを完全に止められずにいると、急に2人は美月の側で足を止めた。そして互いに顔を見合わせると、アーリス星人がおずおずとこちらに近づいてきて、口を開いた。

「あ、あの……大丈夫ですか?」
「……え?」

一瞬息が止まりそうになる。何故話しかけられたのか理解できず、美月は硬直した。
アセクトリカル・アロマティカでは、NPCから話しかけられるようなイベントはないはずだ。少なくとも今は。そう思い、改めて目の前の2人を観察する。心配そうにこちらを覗き込んでいるアーリス星人の頭上には、天使の光輪めいた光が、二重に重なって点滅していた。こちらを見守るように少し後ろに佇んでいるトロボニアン星人の頭上にも、同じような光が浮いている。それを見た瞬間、美月ははっと息を呑んだ。
あの光はグラディアライトだ。上の光が性的な話に対しての捉え方、下の光が恋愛的な話に対しての捉え方を、発光する色で表している。プレイヤー同士で会話する際、うっかり相手の苦手な話題を振らないようにするための装置だ。NPCは恋愛的な話題も性的な話題も話さない仕様になっているので、頭上にグラディアライトは存在しない。つまり、目の前の2人は紛れもないプレイヤーだ。
オフラインでプレイしていたはずなのに何故、と慌てて設定画面を見ると、何故か今日に限ってオンラインになっていた。そう言えば先ほどゲームを起動する時、勢いで色々押した気がするからその時に設定を間違えてしまったのかもしれない。しかもボイスまでONになっているから、泣いていたのも相手に聞こえている。というか、おそらく丸聞こえだったからこそ、こうして声をかけてくれているのだろう。
顔がカッと熱くなる。恥ずかしい。消えたい。ここでログアウトの表示を今度こそ押してしまうか、今すぐ設定をオフラインにしてしまえば、逃げてしまうこともできる。ただ、どうやら心配してくれているらしい2人を見ていると、そうしてしまうのは気が引けた。かと言って何をどう言えばいいのかも分からなくて、美月は2人から視線を逸らして俯く。そうして、かすれた声で呟くように言った。

「……大丈夫です」
「え?」

聞き返すような素振りをされたので、もう少し声を張って言葉を返す。

「大丈夫、です。ごめんなさい」
「そっ、か……」

気まずい沈黙が流れる。そのまま去っていくだろうか、とも思ったが、少し何かを言い淀むような間を置いてから、アーリス星人は再び美月に語りかけてきた。

「あの、良かったらですけど」

何だろうと思い、膝から顔を上げる。真っ白な毛並みから覗く、柔らかな萌黄色の瞳がこちらを見ていた。おろおろした気配はあるものの、それでも何とかしてこちらに手を伸ばそうとする声が向けられる。

「もし、その……このゲームに関することで困ってることがあったら、ここでも、他の街でも聞ける場所があるから、だから」
「……ゲームに関することって?」

思わずそう聞き返すと、思わぬところから声が返ってくる。

「ゲームをプレイしてて困ったこととか、あるいは現実の性的指向に関して悩んでることとか」

あまりにもさらりとした口調に、美月は目を見開いてトロボニアン星人を見つめる。アーリス星人もあっけにとられた様子で相棒を振り返った。そんなアーリス星人に視線で頷くような仕草を見せてから、美月へと顔を向ける。黒い装甲に煌めく青い瞳は、一見鋭く見えたけれど、紡ぎ出される声はあくまで穏やかだった。

「勿論無理にとは言わないですよ。どうしても人に言いたくない悩みがあるとか、整理できないことを整理するのに時間をかけたいとか、ただとりあえず一人になりたくて、ここに来ることもあるでしょうし。でも」

そこで一度言葉を区切り、トロボニアン星人は右の手のひらを上に向けた。黒い鎧じみた手から無数の青い光が弾け、たちまち手のひらに収束する。そうして現れたのは、一本の銀色のラインが入った、白いカードのような物体だった。一見ホテルのルームキーに似ているが、トークルームという印字以外何も書かれていない。不思議に思って眺めていると、トロボニアン星人は美月にそっとその物体を差し出した。

「良かったら、の続きですけど。もし誰かに何かを打ち明けたくなったら、これ使ってみて下さい。使い方は文字の部分を押せば自動で出てくるので」

反射的に受け取ったそれを、美月は改めて見つめる。トークルーム。確か、他のネットゲームで言うギルドのようなものだったはずだ。ただしここでは、お互いの悩みを打ち明けあったり、単純に雑談をしたり、そういうプレイヤー同士の交流をする場所とされている。トークルームに入るにはルームキーが必要と公式HPに記載されていたので、きっとこれがそうなのだろう。
戸惑いながらも、美月はカードキーから視線を上げ、トロボニアン星人へぽつりと言った。

「ありがとう、ございます。えっと……」
「私はミーです。こっちが」
「あ、オリカです!よろしく!」

ミーと名乗ったトロボニアン星人の隣で、アーリス星人がぴしりと姿勢を正す。そんな二人に小さく会釈をしながら、美月はふと思い出した。そういえば、このゲーム上での自分の名を考えていなかった。とっさに今の自分のアバターを見て、思い浮かんだ名を答える。

「……海月(くらげ)、です」

語尾にかけて消えいるような声になってしまった。変じゃなかったかな、と思い二人の様子をちらりと伺う。だが、ミーは青い瞳を細め、オリカはパッと表情を明るくさせていた。
ほっとした拍子に、二人のウエストポーチからベルの音が同時に鳴る。さながらアラームのようだった。はっと何かを思い出したようなオリカを傍らに、ミーは落ち着いた声音のまま、軽くこちらに手を振った。

「じゃあ海月さん、もし機会があったらまた」
「あっ、そうだね!またどこかで!」

勢いよく手を振るオリカの姿を最後に、二人の姿が宙に溶ける。
一人残された海月は、しばらく呆然としたまま二人がいた空間を見つめていた。
手の内のルームキーは、夕陽を反射して煌めいている。そっと握りしめると、わずかに温かいような気がした。

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