谷村志穂さんの「尋ね人」を読みました。
人の「想い」の描写がなかなか特徴的な文章でした。
若かりし頃、何度も消えたくなったことがありました。
身体の不調、心の不調、孤独感・・・がベースにある厳しい生活、満たされない心。
理由は一つではなく、いろんな感情と現実的な問題が重くのしかかった状態に生きる気力を失くしたり、生きることに絶望したり・・・・。
現実に家を飛び出して、何か月も帰らなかったり・・・。
そういう人が少なくはないことを知っていても、飛び出したところで、その状況が劇的に変わることなどないのをおもい知らされてまた元さやに・・・。
そういう場面場面で出会った人たちとの想い出は、のちにその具体的な出来事から形を変えて「想い」となる。
不思議なことに「想い」が浮かぶとその人との思い出が沸き上がる。
不意にある感情が同種の懐かしい感情を呼び覚ます。
それらがまた「想い」となって懐かしい人とのエピソードを掘り起こす。
印象の強いことは繰り返し思い出すが、それは今の生活のルーティンが同じことが起因しているかもしれない。
普段の生活のルーティンから外れて、あまり目にしない光景を取り込むと、ちがう「想い」を呼び覚ますことが可能ともいえる。
ただ、どんな「想い」を呼び覚ませるのか?コントロールをできるわけではない。
今この文章を書きながら思い出したのは、人へ想いを寄せる手段の形骸化というか言葉の希薄化ということ。
携帯電話がない時代、固定電話がつながらなければ、家の近くまで行って待ってたりした。
今ならストーカー扱いされそうな手段であるが、こっそり待ってたことも、待たれたことも、人間関係が深くなっていく過程の表れと思いこそすれ、気持ち悪いなどと思ったことはない。
メールや通話が便利になりすぎて、四六時中言葉を送れる時代になった。
その結果、考えた挙句の言葉がけや行動はかなり減り、大量の「想い」や「意思」の押し付けを行った後の待ち伏せなら、確かに付きまといの一面はある。
ただ、考えなければならないのは、連絡をシャットアウトするその経緯もかなり乱雑になっている気もするのである。
どうしたって「想い」をコントロールできることはない。
しかし、過去に切なく苦しく悩んだことも、時間が解決してくれたことを思えば、一時に「想い」を集中しなくても済むようにできる人間になることが、大人になる要素の一つだとも思う次第です。
感情の伴わない生活も人付き合いもつまらないもの。
でも、いったんのめり込んだ気持ちをリセットするのは困難でいつも葛藤や苦しさが付きまとう。
そういう「想い」を整理する術を持ち合わせるのなら、人はきっと少しは楽に生きられる。
僕には最も難しい事柄の一つではありますが・・・。