見出し画像

Giftと失ったもの。(コロナ後遺症)

macのファイルを整理していて、ふとコロナ罹患前に自分が書いた文章を読んでみた。とても驚いた。

虐待という乗り越えがたい経験に触れながらも、希望を見出して終わっている。 

「絶対に他人に受け入れられないと思っていた自分の過去、それにともなう現在の想いや考えは誰でもない私だけの持つ武器である」

と書いてあるのだ。

思い返せば、コロナ罹患前でいちばん精神状態が悪かったのは、中学生で強迫性障害と抑うつが酷かったときか、高校生で虐待が認定されたあとの解離とフラッシュバックが酷かったときであって、強烈な自殺念慮がこれほど長期的に続くことなどなかったのだ。

気がつかなかったけれど、このしぶとい自殺念慮はコロナの後遺症である可能性が高いかもしれない。「死にたい」ところで思考が停滞していて、それ以上進まない感覚はたしかにある。


「あなたと話しているととても知的だなと感じる。それはコロナに罹患した後も変わらない。過去のあなたがいまのあなたを作っていて、その深さに繋がっているのではないか。」

最近友人と電話していて、こう言われた。単純にとても嬉しかったけれど、コロナ後遺症のブレインフォグによって私のいわゆる「知的さ」は失われたと思っていたから、驚いた。もしかしたら、たまに人に褒めてもらえる「知的さ」なるものと、私が勝手に自負していた自分の「知的さ」には齟齬があるのではないか。
2人ともお互いに思う「知的さ」をうまく言語化できなかったけれど、少しだけ分かったのは、彼女は私の深さや思いやりを知的だと言ってくれていて、私は頭の回転の速さを自分にある知的さだと思っていたということだ。

なるほど、それなら、頭の回転は遅くなっても私の人生経験からくる「深さ」みたいなものは失われないのかもしれない。(そんなの自分にあるかは分からないけれど。)

頭の回転が速いことや、すぐに記憶できること、すぐに理解できることは、生まれた時から授かったいわばgiftだった。そのgiftは、突然失われた。でも考えてみれば、はじめから私の努力で手に入れたものではなかったじゃないか。今まではラッキーなことに与えられていただけだ。そう思えば、コロナ後遺症ブレインフォグの捉え方も少し変わってくる気がする。もちろん、まだ失ったことに納得できるわけではなく、やり場のない怒りと悔しさに囚われている。(また、本が読めない、会話ができないなどの深刻な認知機能の障害に対しては、依然として治療が必要だと思うし続けていく。)

色々な課題が山積みな訳だけれど、とりあえずコロナ後遺症ブレインフォグに絞っていえば、「知的さ」なるものに執着してそれを失ったことを悲観するのではなく、現状の治療方法の模索に加え、思考の停滞とそれに伴う自殺念慮についてもっと注目して改善を図っていく必要があるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?