コロナ後遺症とアイデンティティーについて

コロナ後遺症によって私の脳血流は低下した。

それはどういうことなのか。

一口に脳と言っても、血流の低下する領域によって症状は変わってくる。例えば後頭葉には視覚野があるため、頭の後ろ側の血流が低下するとものがよく見えなくなる場合がある。人によっては幻覚が見えることもあるらしい。

私は後遺症によって後頭葉と側頭葉、そして前頭葉で脳血流が低下した。(具体的な機序についてはまだ未解明なので、諸説あるがここでは控える。)幸いにも今のところ幻覚や幻聴の症状は出ていないけれど、前頭葉の血流低下は私にとって致命的だった。

では、前頭葉の血流が低下するとはどういうことなのか。

一般的には、思考力・集中力の低下や言語障害が問題となる。でも私にとってはそれ以上に、生きる意味の喪失だった。
勿論、思考力が低下するということはそれ自体が危機的である。大学の授業の課題は間に合わなくなったし、論文が読めなくなって研究を続けられなくなった。さらに、所謂IQが高いことを多少なりとも自負していたので、脳血流の低下とそれに伴うIQの低下は重大なアイデンティティークライシスでもあった。
でもそれだけではない。

自分が変わってしまうということ。
死に物狂いで纏ってきた自分という鎧が崩れていくということ。
もう、人から受け入れられるに値する人間になれないということ。
それどころか、大っ嫌いだったあの頃の自分に戻ってしまうということ。

私にとって、前頭葉の脳血流低下が意味することは、そ
ういうことだった。

念のため言っておくと、程度にもよるが、少なくともコロナ後遺症による前頭葉の脳血流低下によって、人格が全く変わってしまったり、性格が悪くなってしまったりすることは一般的にはない。

それでも私にとってはそういうことだった。
私は、元来の自分の性格が大嫌いである。虐待を受けた経験も大きく影響しているだろうが、卑屈で鬱屈としていて命の価値を信じられない自分が大嫌いだった。

だから、そんな性格を変えようと文字通り死に物狂いで努力してきた。自殺を思い立った時にはいつも、肉体を殺してしまうくらいなら、その前に心を殺そうと考え直した。「善い人間」として振る舞って社会に適応して、ささやかでも何かしら人の役に立とうと頑張ってきた。そうやっていくうちに段々と、演じている自分をあたかも本当の自分かのように錯覚できるようにさえなった。

それなのに突然、前頭葉の脳血流低下とそれに伴う思考力や言語能力の低下で、うまく取り繕えなくなった。本当の自分からなにも取り繕えなくなった私には生きている価値がない、心からそう思った。


そして今日、友人の言葉に生きる意味を見出した。
その人は私を、彼にとって大事なことを成し遂げるためのパートナーに選んでくれた。優しい人間だと思ったから一緒にやりたい、一緒にできるのは私しかいないと感じたと言ってくれた。
期待されても裏切るだけだと分かっていたから、後遺症の症状を説明して、
「その言葉を喜んで受け取れるだけの自信がない。たしかに以前なら、善い人間であるために努力していた。例えば、多少自分が空気の読めないやつだと思われようと、他の人が傷つかないように恥をかかないように立ち振る舞った。そういう意味で優しかったかもしれない。でも今は、頭が働かなくてそんなことさえ出来ないんだよ。」
と、半ばやけくそになって打ち明けた。

そうしたら友人は、
「人の価値とか、優しさとか、自信とかってそんなことではないんじゃないの。」
と言った。
彼によれば、もっと本質的なところ、本質的な態度に人の優しさはあるのらしい。そしてそれを、私の喋り方や雰囲気に感じたのだと。

何も取り繕えなくなった私に、人に選んでもらえるだけの、優しいと言ってもらえるだけの価値があるのか。彼の言葉が綺麗事に聞こえなかった訳ではない。でもなんだか、後遺症になるずっと前から許してもらえなかった私という人間が存在するということを、初めて許してもらえた気がした。

私をいちばん軽蔑していて、取り繕えない自分をいちばん許せないのは、結局私である。私は、もはや心を殺すことさえできなくなったありのままの自分の、優しいところを探してみようと思った。

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