見出し画像

もう死ぬなんて絶対に言うんじゃないよ

今日は引越しの手伝いに友達が来てくれた。
と言ってもまだ出会って間もない彼女

感情表現豊かで感性が素敵なお姉さん的存在だ

彼女が手伝ってくれたから引越しが進んだのは言うまでもない。
捨てられるもののほとんどは彼女が手伝ってくれた
本当に感謝している

引越し祝いにもらった彼女が握ってくれたお寿司は、ほとんどまともなご飯を食べていなかった私には最高のごちそうで、純粋な気持ちがうれしかった

昔から私は死について考えることが多かった。

なぜだろう?物心ついた時には早く死んで楽になりたかった

ーーーー死ぬなんて悲しいこと思わないようにねーーーーー

地元を離れる私に彼女が最後に残してくれたことば

「どんどん笑顔が可愛くなっていくよ。初めの頃と今とではよく笑うようになったよ」

今私と出会った人たちは優しいことばを投げかけてくれる

今の私は本当幸せで豊かだなぁって
つい最近まで自己否定されてひどい言葉ばかり受けて来た私が今生きてここで出会った仲間と一緒にいることの方が夢みたい

ぎゅっとお互いの体温を感じながら抱きしめ合う
まるで昔からの親友のように

実際に私が会ったのはこれで2回目
信じられる?

まるで昔からの親友みたいにお互いの別れを惜しんで、泣いて
時間じゃないなって本当に思った

どれだけ質を上げてお互いの思いを出し合うのかっていう方が大事

「また何かあったら言ってね私ができることならなんでもするよ!」

笑顔で涙を流して去っていく彼女を尻目に昔のことを少し思い出した


一番最近で一番絶望して死にたいと思ったことがきっかけで、最愛の息子を失った時のこと

「病院連れてってくれない?」

こどもにおっぱいをあげている私に彼がお願いをしてきた

彼はうつ病で病気療養中だ

身近な人間で車を持っているのは彼の親族では私しかいないから、いつも送迎を頼まれていた

妊娠中一度も病院に付き添ってくれなかったのに、私には送迎を頼むっていう図々しいやつだけど

この時の私はそれが当たり前だったからそれがおかしい事にも気づいていなかった


病院当日。

私が運転席、彼が私の後ろ、彼の隣には最愛の息子という並びで車に乗り込んだ

運転免許を持っていない彼が、強制的にあやすのは彼の仕事になった

バタンとドアが閉まったことを確認して車を走り始めた私は笑顔で

「抱っこするときなんだけどさ。ちゃんと声掛けしてから抱っこしてねこの子だって物じゃなくて人間なんだから」

モンテッソーリ教育を学んでいた私は日本では当たり前にやっていることを否定的な考えを持っていた

モンテッソーリ教育では子供を大人と同じ扱いをする

だから親の都合で抱っこしたりおもちゃを取り上げることはタブーとされていた

だから抱っこする前に抱っこするねとたった一言声をかけて欲しいと軽い気持ちで指摘した

子供には自分で考える力をつけてやりたいことを自由にできる人間に育ってほしかったからだ

私は学んだことをすぐにシェアして自分の考え方は正しいんだと、純粋な気持ちで学んだことばをそのまま知識のない彼に突然伝えた

この言葉をきっかけに子供を失う絶望を味わうなんて知らずに・・・


ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!

彼が後ろから新車の車のリクライニングを蹴ってくる

「てめぇふざけんなよ!くだらねぇこと言ってねぇで今すぐ死ねよ!」

死ね!ドン!死ね!ドン!死ね!ドン!死ね!ドン!死ね!ドン!

「お前とは離婚だ!早く死ねよ!」

彼は完全に私のことを舐めていた。自分よりも下の人間に少し注意されたくらいでブちぎれるくらい器のちいさな男


私は車を運転しながら突然のことで混乱していた

なんで?なんでそんなに怒るの?って訳も分からず、しかも産後うつの気もその頃あったから悪い意味でその言葉を受け取っていた

怒って彼が信号待ちしてるときに「死ね!」と捨てセリフを吐いて車のドアを力いっぱい大きな音を立てて出て行った

「死ね」
ずっと私が望んできたことだ

呼吸が浅くなる涙が溢れる
あぁ死ねって言われた

私は愛されてないんだ。
普通に世間話のつもりで言っただけなのにひどい

胸がギュッとなって悲しくて寂しくて

あぁもう私は死ななきゃいけないんだ
どうやって死ねばいいんだろう?
子供はどうしたらいいんだろう

泣きながら死ぬことばかり考えてどうしようもなくなったとき
藁にも縋る思いで児童相談所に助けを求めた

旦那と喧嘩して死にたいと訴えたのがきっかけ

電話で相談するとすぐに来てほしいということで、車で児童相談所へ向かった

泣きながら何度も言われてきた死ねって言葉
やっぱり死にたくない
けど誰にも助けを求めなれない

お願いだから死ぬ前に助けてほしい

助けてもらう方法も知らない、人への甘え方も知らない私は微かな光を求めて車を走らせた

私と子供は離れて私と相談員2人で面談をし、さっきの出来事や今まで旦那にされてきたことや日常的に暴力を振るわれていたことを涙を流しながら相談した

こんな暴力を受けているなんてじっくり話を聞いてもらったのも初めてのことで

辛い胸の内を話してすっきりして油断していた

ほとんど待たされている状態が続き、1時間後児童相談所の会議の結果。
子供と一緒に暮らすことが難しいとの判断が下され

強制的に離れることが決まった

原因はほぼワンオペの状態で周りに助けてくれる人が誰もいないことが問題視されていた

「○○ちゃんはこちらで預かることが決定しました」

それを聞いた瞬間仕方ないと諦める自分と痛めてうまれた最愛の子供と離れることの絶望感が想像もできないほどのものだった

胸を引き裂かれるとか、またいつか会えるとわかっていても
いつも抱きしめていた大切な愛情の塊が突然かたちを失くして零れ落ちて砂のようになくなっていく感じ…

一生分の悲しみをその時の私は受けた気がした

あの時の絶望感は忘れられない・・・

今でも号泣してしまうくらいの人生でトップに入るくらいの悲しい出来事

帰って数日間は何かを持ってるふりをして、でもなにも持っていないことの絶望感を止まることもない涙を流しながら気力がなくなるまで続けていた

大切なものを失って、死ぬことも許されない

こんなの生き地獄だ

旦那に児童相談所に子供を取られたことを連絡した

「お前バカじゃねぇの?」
「お前が悪いだろ!?」

この頃には何を聞いても右から左で返事をするのがやっとくらいに感情が負のオーラ出てて

話方も変わってたと思う
よくある自信がなくて声も小さくて何を言っているのか分からずイライラしてしまいそうな

きっかけは旦那の暴力で児童相談所に子供を取られたのに、そんなこと考える余裕がないくらい

ただただ悲しみと絶望の中でひたっていた

旦那が暴言吐くのに満足した頃、現実に戻って子供を取り返すにはどうしたらいいのか話し合うことになった

今ほぼワンオペで旦那は家に寄生してるけど、「うつ病」を理由に子育てに協力的でないこと

両親からの援助を受けること

親の助けを借りるというのが1番私にとっては重い行動だった

母親はいわゆる女で、男ができると家に帰ってこなかったり、私との仲も悪かった。

現実的なことを生意気にいう姉と母親の言うことを聞いて母親の望むレールの上を歩く妹なら間違いなく妹を選ぶだろう

どんどん母と私との亀裂が広がって修復不可能になっていた。

産後里帰りしたときも私がいるのにお友達と毎日ランチや夜も外食に行って里帰りの意味がなかったくらい放置するような人間

ここでまた更に母のことが嫌いになったし

頼んでも無駄だと思っていた

私たちの状態も旦那は知っていたので、生活保護を受けている旦那の母に頼むことにした。

電話で話してたけど、もう本当暴言が酷かった

私に対して頭がぐわんぐわんするくらい
浴びせられる否定的な言葉の暴力

次に旦那のスマホ止めたら離婚しますって念書かけとか

いつもお前は警察呼んだり騒ぎを大きくしてみっともないとか

ボーっとうるさいなぁと思いながら義母が満足するまで言葉の暴力を受け続ける

でも本当は体は強張り怖がっていた
ここまで言われる筋合いないってくらい責められてこの時のことは正直どんなら暴言だったか覚えていない

それくらい酷い暴言を一方的に言われ続けた

とりあえず「すみません」「はい」って同じ言葉を繰り返すだけ

今思えばさすがうちの旦那育てただけのことはあるな

お前が昔シングルでどれだけ苦労したとか
お決まりの私はすごく苦労してきて偉いんだと
昔の自慢話が始まる

結局、今回の電話では満足しなかったから2万お金渡して口裏を合わせてもらうことにした

金さえ渡しとけばコロッと態度が変わるっていうわかりやすい性格の義母だから

これで買収完了した

その後も1度入院費用が払えないって旦那にブチ切れたって話聞いたから5万渡して

「次困ったことあっても私はもう助けません」
って切ったらめっちゃ怒ったらしい

超絶テイカー思考

当たり前でしょ生活保護なんだからあげたお金は自分で好きなことに使えるんだから

それを当たり前のように返さない義母も旦那も人としてどうかしている

買収が完了した後に面談するために3人で児童相談所まで向かった

開口一番
「あんた挨拶もできないのかね?」

まだ気力がなかった私は泣きながら

「本日はよろしくお願いします」
と小さな声で絞り出した

車の中でもずっと
「なんで行かなきゃいけないだ」
「行きたくない行きたくない」

ずっと不平不満ばかりで同じ言葉だけを繰り返していた

児童相談所についたら義母は大人しくなったようだった

私、義母、旦那の3人分の名前を記入し、

2階の面談室まで1人1人面談が始まる。

面談員さんは被害者の私には色々提案もしてくれていて旦那と義母にもこちらからうまく言っておきますって優しくしてくれた

その言葉は全く2人に届かなかったけど。

旦那が面談に入るとき義母と2人きりにされた

ここから義母お決まりの、
シングルで2人育てるの大変だったとか
足を骨折しても仕事は休まず行ったとか
自慢話をされる

「あんたは何も苦労してない甘ちゃんなお嬢ちゃんだね。見てればわかる」

「もう2度とこんな騒ぎ起こすんじゃないよ!」

正直イラッとしたけど口裏合わせてもらってる以上歯向かえない

まぁ義母の母親は無理心中して
義母の弟を殺して刑務所に入ってたくらいだから

義母の人生に比べたら甘いのかもしれない

自分の人生を美談として語る
金遣いが荒すぎて金銭感覚が狂っている
生活保護を受けることを
恥ずかしいとも思わない人は
自分の責任で今の現実があるとも気付かずに


その日。
やっと息子が帰ってきた。

久しぶりに会った1歳の息子は少し前髪が伸びてニコニコしていた。

ずっと会えるのを待っていた
会えた瞬間心の底から安心した

その頃ニュースで保育士が幼児に虐待していたという話題もあって不安だった

自分の手の届かないところで虐められてないか
辛い思いはしていないか
笑顔を見ることができて罪悪感でいっぱいで私の中でカチッと音がしたような気がした

帰ってくるまで1ヶ月かかった。

もう絶対に息子と離れるようなことはしないと決めた2年前の夏。

まだ半年経ったくらいしか生きていなかった
息子は覚えていないと思うけど

幸か不幸か
私の人生の転換期はここから始まった

これがなければ今の私はいないって断言できる

もし、不幸なことで落ち込むことがあっても大丈夫
それは必ずあなたにとっての糧になる




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?