砂袋黙ってうどん喰っとけ

 『奴』がなんの商売をしているかは知りようがないが、金払いはいい。
 凍てつく夜風に煙草の煙が揺れ、朧月とくすんだ街灯では心もとない夜道をヤマダは歩いている。
 ”薬”のせいか、倍に腫れあがっていたグズグズの桃のような顔面は、何の変哲もない貧乏面に戻りつつあった。しかし、口腔は血の味と香りで充満していた。血と煙草が混ざり合った、遣るせない香りが脳を刺激する。
 疲れと、困惑で頭グラグラでけちょんけちょんで、万年床に飛び込むしかなかった。枕元に缶ビール三本と焼き鳥が転がっていた。久方ぶりの豪勢な晩酌に、つい顔がほころんだ。
 薄暗い室内で横になり、天井を見上げながら煙草に火をつける。
 ふと、窓の外に目をやる。
 真夜中というのに、不健康な色とりどりの光りが溢れていた。この部屋は、歓楽街の飲食店の入ったビルの一室にあった。『奴』の持ち物であるビルであり、ここはいわば社員寮のようなものだ。
「カーテンぐらいつけようか」
 それは週末に買うとして、明日も早い。
 ヤマダは眠りに落ちた。
 ヤマダは目を覚ました。
 早朝。
 カラスの鳴き声がけたたましい。少しはさえずってほしい。ヤマダはシャワーを浴び、安手の白シャツとチノパンといった格好で、さっさと出勤する。
 流石に気が滅入る。
 何せ、奴が、好きな時に、殴られるからだ。
 運転していると、横から拳が頬にめり込んでくる。
 脳が揺れる。その揺れに合わせて殴られつづける。奴は息が上がって、「ふう」と一息つきシートに収まる。年のころは五十歳ぐらいで、やや肥満型。ハイブランドの特注のスーツを無駄に着込み、革靴の先端は尖がっていた。当然のように。
 仕事なのか出先で待機し、奴は帰ってくると、
「事務所に帰るぞ」
 それはカラっとした昼下がりで、嫌な予感がしたが、仕事なので仕方ない。それはもうガランとして、不自然なほどくすんでいて、ソレはもうソレが目的としか思えない殺風景。
 コンクリートに囲まれた室内の中央に、パイプ椅子があった。
「座れよ」
「はい」と言って座りかけた瞬間に顎を蹴り上げられた。嫌な、鋭角な痛みが顎から脳天にむけて一直線で走った。椅子は転がり、勢いよく尻餅をついた。奴は、昨日と同じ緑色の液体がはいった、注射器をだして、無言で首筋に注射してきた。
「これで今日はお楽しみだ。お前は良い筋をしてる。安心しろ、今から吊るしてやるから」
 奴はそう言って、天井に取り付けられた金具にぶっといチェーンを接続し、箱から出した拘束具に繋げた。
 ヤマダは吊るされた。
 奴はメリケンサックを両手に嵌めた。
 奴はいつのまにかスーツからファイトパンツ一丁に着替えていた。
 筋肉と、脂肪と、傷と、趣味の悪い髑髏のタトゥーが右肩で笑っている。
「いくぞ」
 金属を纏った拳が鼻骨を粉砕した。激烈な痛みが顔面全体に迸り、熱くなり、次の瞬間には、拳が、腹部を抉って、胃酸とランチの牛丼が口から弾け飛んだ。執拗にミゾオチを抉られ、痛みが麻痺するほどに殴られ続けた。
 そして口にガラスの破片を仕込まれ、殴られ、口腔はミンチになり血肉混じりの吐血をした。奴は殴り疲れるとパイプ椅子に座り、酒をあおった。
 その間、薬の効果、傷がみるみるうちに癒えていく。
「あの薬、なんなんです」
「砂袋は黙ってろ。知らなくていいんだよ」
 奴はそう言ってその後も凄惨な暴行をつづけ、時計の針が午後5時なったところで、拘束を解いた。
 コンクリートの床は、血飛沫と汗でどす黒くなっていた。
「着替えと金はロッカーにある。今日はこれで終わりだ」
 奴はそう言うと部屋をでた。
 ヤマダの顔面は蜂の巣に顔を突っ込んで熟睡したように、ボコボコになっていたが、やはり、薬の効果か、すこしづつ元の、貧乏くさい顔に戻っていく。
 ヤマダはロッカーでジャージに着替え、給料の入った紙袋を持って事務所の裏口からでた。ビルとビルの隙間の道で、ハイブランドの特注スーツの奴が待ち受けている。おそらく金の入った封筒をヤマダに渡す。
 どう見積もっても二百万程度はある。
「なんです、コレは」
「あー、こっから大通りに行ってよ、緑の看板の薬局のとなりに、うどん屋がある。店主に渡せ」
「分りました。何の金で―――」
「砂袋は黙ってろ。知らなくていいんだよ。黙ってうどん喰っとけ」
 奴はそう言って、ラブホテルが立ち並ぶ方面へ去っていった。
 ヤマダは言いつけとおり、うどん屋へ向かった。
 そこは見るからに老舗で、暖簾は掠れた青色で雑居ビルの一階。壁は薄汚れたオフホワイト、風情も何もなかった。
 カウンターのみ。十席ほど。一番奥に絞った雑巾のようなジジィがいるだけで、音楽もなく、妙な静けさがあった。
 四十後半の、角刈りの、釣り目でへの字の口、妙にとんがった耳の店主がヤマダを睨みつける。
 ヤマダは急いで封筒を店主に渡した。
 まるでそれと引き換えのように、一杯のかけうどんをカウンターに置いた。ワカメ、紅白のカマボコが二枚、刻みネギ。
 ヤマダは一口、汁を飲んだ。
 鰹節の豊かな香りに、昆布の旨味がほどよく絡み、スッキリと喉を通過した。「美味い」つい声にでた。麺は小麦の爽やかな風味と塩味、コシがあり喉越しが心地よい。あっという間に完食してしまった。
 絶品だ。
 ヤマダは空いた器をカウンターの上におくと、
「ご馳走様」と笑顔で言った。
 店主は、
「仕事頑張れよ。死なない程度にな」
「ハイ!」
 ヤマダはつい、牧童のような、元気だけが取り柄のような返事をしてしまう。気づけば外は、夜に沈んでいた。
 美味いもの喰った後の充足感は、夜風に絡めとられ、明日からまた奴の暴行の的。
 砂袋になるという事実に気が滅入った。
 それでも金のためであると頭で何度も反芻し、独り言ちた。
「うどんを楽しみに頑張るか。死なない程度にな」
 
 

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