凍狂

 一カ月だけ。
 その契約でコールドスリープの治験に挑んだエムは、慄然としていた。
 何せ、人類が絶滅していたからだ。
 正確に言えば、全人類のDNAデータをスキャン後、一部生体を保存し、世界各地に貯蔵庫を建設、収納されたのだ。
 そんなこととはつゆ知らず、エムは、辛うじて視界が確保できる程度の明度を頼りに、足の裏の冷たい感触を踏みしめながら、事態の把握を試みる。
 それは叶わなかった。
 成人男性がぎりぎり通過できる細い通路を超えたさきは、広大な空間が広がっているように思えた。
「すいませーん、だれかいませんかー」
 どこまでも声が反響し、しばらくして静謐の重圧が押し寄せてくる。絶望の予感ともいうべき心細さは、容赦なくエムを襲った。
 それを振り払おうと、生まれ育った街を思い浮かべてみる。
 都心から若干離れた、どこもかしこも雑踏ばかりな、品のない、見かけだおしの、商業主義が横溢する、ケチで強欲、汚れて、薄っぺらな街だった。
「再開発で少しはマシになったってのに、民度はそのまま、町中華の価格帯は心配になるほど据え置きだったな」
 人類在りし日を思いだし、少しは、生の灯火が強くなった気もしたが、事態の把握、打開の見通しは陰惨を極めている感触だった。
 あ。
 あったかい。後頭部。
 え?
 エムは、空中の、透明な『何か』にもたれかかり意識を失っていた。そのまま向かいの壁まで運ばれ、通路が出現し、そのまま運搬されてしまった。
 そこは小部屋だった。
 有無を言わさず壁に、磁力を思わす原理不明の力で拘束される。透明な何か、いや、奴は、親指の先ほどの物体をエムの頭上に浮かべた。 
 そう、浮いている。直後、赤い光線が降り注ぎ、エムを包み込んだ。三秒程度の出来事。奴は理解不能の言語で、テレパシーなのか、ノイズを漏らしている。
(殺されるのか。奴はなんなんだ、人間ではないだろう)
 奴は一言何か言って、一端姿を消し、薄手のシャツとズボン、スニーカーを床に落とした。不躾だ。人の道理は通じない。
 ふと、拘束が解かれた。自分が全裸であったことを思いだし、奴の意図を汲み取り服を着る。その直後、一筋の光が一本、闇を切り裂いた。それは外部に通じるようだ。
(行け。ということだろうか)
 エムは光の道を進んだ。あっさり、外があった。
 知られた世界であろう一端、地平線が永遠の霧に溶け込んだような場所。広大で謎に満ちた構造物がそびえ立っていた。
 数十キロもの間、何も無いようで、圧倒的な静けさの中、虚空に囲まれている。構造物自体が、この地を覆う霧を呼吸しているようだ。
 その呼吸は、目に見える限り、密な霧のヴェールを広げる。自然現象ではなく、構造物の絶え間ない活動の副産物だった。
 内部では、進んだ機械と計算機クラスタが、膨大なデータを処理に忙しく動いている。
 ほぼ無音の砂地に立ち、風に吹きさらしになるエムは、構造物からつづいていた通路が消えた瞬間を見た。
 それは希望が潰えたサインに思えた。
 エムは震えていた。
 凍てつく空気に、体の芯から支配されそうだ。
「家に帰らないと、うん。それで、洗濯しないと。あと、ドラマの最終回だった。そうだ、そう、うん、帰ろう、帰ろう、、、、」
 静かに確実に、発狂が毛細血管に侵入した。
 眼前に広がるのは、濃霧と虚空、不可逆の絶望しかなかった。
 

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