私とケンタッキー・フライドチキン

 子供時代、それはご馳走。ジューシーでスパイシー、そんな単語を知らない幼子を虜にしていた。ニキビが増える中学生、無限の食欲高校生と、成長するごとにケンタッキー・フライドチキンに対する愛が高まっていく。
 しかし、不思議と、食べる機会は一カ月に一回。多くて二回程度。若干、高額だからか、または、流石に飽きるからか。大人になってもそれは同じで、たまに食べるぐらいが調度いい。そして酒のアテにはしないほうがいい。美味しいのは最初の二個まで、チキンで腹が膨れて酒どころではない。
 なんだろう。文章がとっ散らかってきた。文才の無さに閉口しかけるが、深刻な文字数の不足があり、終われない。はぁ。只の、アメリカ風鶏の唐揚げで何を書けというのか。そら、美味いさ。文明人ならほとんどが食した経験があろう、その物体の思い出なんざ、「食べた」「美味かった」以外何があろう。苦労しながら、ただ惰性で書き殴ったとて、なんとなる。
 閉口。痛い。私の口に太い指を、物書きの悪魔が突っ込んで、語りかけてくる。その顔は中原中也に似ていた。
「殺すぞ。能無しが。貴様は地獄も出禁であり、天国行きなど一縷の可能性もない。プロは書けぬときも書き、クオリティを維持し、締切は死んでも守るもんだ。カ、キ、ナ、グ、レ。チェッ、だからおめぇは。」
 なんとまぁ、長々と文字量かせぎをしたものだ。
 本題の「私とケンタッキー・フライド・チキン」についてはもうない。そもそも、何故、テーマに選んだか。ネタがないからに他ならない。深刻かつ、慢性的なネタ切れを如何にして改善するべきか。
 しかし、なんだこの文章は。蛇足の塊じゃないか。無料でも読めたものではない。なんなら、金を払ってほしいくらいだ。そんな自虐をしていたら、食べたくなった。明日、ケンタッキーにしない?

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