鈴木胸騒ぎ

 通勤、通学客がひしめき合う駅のホーム。
 鈴木は眠気まなこで、欠伸までたてやがって、目も口も半開きである。電車がやってきたと同時に、ふと一つの思いが頭に出現した。
(家の鍵、閉めたっけ。アレ、アレ? 閉めたかな)
 記憶を一気に辿る。
 満員のバス。歩道。玄関。いつもよりなぜか急いでいたような。思い出せないまま、鈴木は電車に乗り込むほかなかった。人が雪崩れ込んでくるが、出入口付近を確保する。
 香水や、香水、また、あらゆる香水のにおいに悪戦苦闘しながらも、鈴木の脳裏には、鍵をかけ忘れたとの思いが、鋭く突き刺さっていた。
(落ち着け。冷静に考えろ、冷静に)
 鈴木は想定をした。
 鍵が開いているからといって、泥棒が入るとは限らない。それに鍵をしめていても、入られるときは、入られる。その場合、それは侵入までのスピードの違いであり、鍵の有無は関係ないのだ。入ったとしても、物欲は人並み以下で、金目の物はない。強いていえば、別れた彼女と一緒に買ったペアリングぐらい。せいぜい3万円、盗られたとしても悔いはない。
 何を盗られようと、死にはしない。
 手間がいくらかあるぐらいで、喉元過ぎれば熱さを忘れるであって、いずれは笑い話になる。何が問題だというのか。この世の終わりのような気分になっていたことに、鈴木は自分が恥ずかしくなった。
 むしろ、今、泥棒に入ってくれれば、居合わさずにすむ。そんな怖い思いをせずに済んでよかった。帰って物がなくなっていたら、警察に通報すればいいだけだ。近くの交番の警官がやってきて、事情を説明して、それで終わりだ。
(なんだか、どうでもよくなったな)
 鈴木は会社最寄りの駅で下車し、改札へ向かった。
 夜。
 鈴木の姿は、駅のホームにあった。人は疎ら、夜気が鼻孔を掠め、飲み会の帰り。少々、足取りを不安定にさせながら帰宅の途についた。
 バスの車内。 
 ふと、
 朝の胸騒ぎを思い出す。
(家の鍵、閉めたっけか。もうすぐ確かめられる。落ち着け、俺)
 自宅付近の停留所に到着し、下車すると、鈴木は足早に自宅アパートに向かった。心臓は早鐘を打つ。息も上がる。汗が噴きだす――
 夜のため、足音をたてないよう、気を遣い階段を登り切り、自室のドアの前に立つ。無意識に直立する。
 ドアノブに手をかける。
 深呼吸する。
 捻る。
「空いてない!」
 思い過ごしであったと、意気揚々とバックの中の鍵を探す。
 ない。
 ない。
 鈴木は心臓を鷲掴みにされたように動転し、記憶を猛烈な勢いで探る。思い出させない。
 パニックに陥る寸前で、足元に違和感をもった。
(もしかして――)
 鈴木は期待をこめて足をどけてみると、銀色に鈍く光る、鍵だ。
 心の不純物がナイアガラの滝に流されるように、消えていった。それを意気揚々と拾い上げて、鍵をあけ、部屋に入った。
 しっかりと鍵をかけて、電気をつけた。何の変哲もないキッチン。荒らされた様子はない。鈴木は寝室の電気もつける。そして、ため息を吐いた。
 誰もいない。当然だ。いい加減、警戒をとき風呂をたく。湯舟につかり、風呂上りに炭酸水をのんで、仕事の資料に軽く目を通して、ベッドに身を預けた。
 電気を消す。
 その時。窓に、何かが、当たった音がした。
 胸騒ぎが全身を駆け巡った。確かめる気にもなれず、目を閉じた。意地でも、目を開ける気はなかった。
 もう一回、音がした。窓にはカーテンがかかっている。影はない。
(俺は、何に今日一日振り回されたんだ?)
 鈴木は、
「こういった取り越し苦労をして、社会の隅っこで生きている奴です」
 鈴木はそう、独り言ちた。
 

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