鈴木遊弋

 六畳一間。万年床。枕元には、中学時代から使っている目覚まし時計と、ミネラルウォーター。
 鈴木は朝の激しい日光で目を覚ました。
「今日はなんだか日差しが強いな」
 がらがらと窓を開けると、世界が水没していた。
 二階建てアパートの一階部分まで水位が迫っている。辺り一面、海、という様相に唖然とした鈴木。
 水面に浮かぶ木材に、鶯色のメジロがとまっている。
 何事もなかったように。
「呑気なものだな」
 鈴木はとりあえず使い古したショルダーバックに、財布や保険証、お茶のペットボトルなどを詰め込んだ。
 雲一つない空は静かで、カラスたちの黒い影が舞っていた。
「誰かいないかな。これは逃げ遅れたな」
 ガラクタが浮いてるその先に、誰の趣味なのか、小型の手漕ぎボートが浮いていた。渡りに船とばかりに、木材や看板を伝って、ずぶ濡れになりながら辿り着いた。
 見渡す限り、清々しいほど、大海が拡がっている。声一つ、物音一つ聞こえず、不安になりながらも、オールで漕ぐに慣れたころには気分がよくなっていた。もう仕事に行かなくてもいいし、気ままに釣りでもしながら、好きな時に寝て、遊弋していればいい。
 そう思っていたが、
「まじで誰もいないな」
 寂漠感が闖入してきた。止めどない胸騒ぎを容赦なく日光が照らす。
 思わず持参したお茶を一口ふくむ。その渋さに我に返り、ひたすらオールを漕いでいく。
 せっかくの自由を有意義に使おうと、かつて働ていた倉庫に向かってみることにした。しかし、県境を超えそうなところで、遠すぎると断念した。
 酒類のピッキング作業のバイトだったが、先輩たちが軒並み性格が腐っており、碌な人間がいなかった。
 独身の妙に当たりが強いおっさんや、片言でいつも怒っている中国人、痩躯で眼鏡の正社員の男は淡々とした口調が嫌いだった。
 きっとこの状況に関係なく潰れているだろう。 
 鈴木は、近くのコンビニの屋上に降り立ち、海に飛び込み、割れた出入口からなかへ侵入した。息のつづく限り食糧を抱えて、手漕ぎボートに帰ってきた。
 ずぶ濡れで、髪がワカメのようで不快だった。
 卵のサンドイッチに水の生臭さが染み込み、吐き気を催した。ポテトチップスは無事で息を吹き返す。鶏の唐揚げはさっぱりとして、むしろ好みに近づいていた。
 腹ごしらえを終えて、元気が出たのか、鈴木は実家に戻ってみることにした。
 12時間ひたすら漕ぎ続けると、夜気が鼻孔を刺激して、水面に満月がうつり、鈴木は言った。
「綺麗だな」
 実家もやはり、水没していた。二階の元自室の窓をたたき割り、里帰りした。当然、電気はないので、棚から懐中電灯をとり、室内を見て周った。
 小学校の入学祝いに買ってもらった学習机、漫画の多い本棚、シールだらけのローテーブル、テレビとゲーム機。
「何も変わってないなぁ」鈴木は深呼吸して、一階も両親の部屋に向かった。暗闇のなかで泳ぎ進めていくが、人の気配はなく、調べ続けたが、二人の姿はなかった。
 鈴木は父親がよく被っていた赤のキャップだけ拾って、二階の自室に戻って、布団をだす。
 とりあえず、夜が明けるまで寝ることにした。
 海水浴、ネズミのテーマパーク、盆暮れの帰省、近所のショッピングモール、なんだかよい思い出ばかり夢に現れた。
 朝。
 今日も底抜けに晴れていた。
 親父の赤のキャップは、少し乾いていた。それをひょいと被り、手漕ぎボートに帰還する。
 しばらく漕いだところで、鈴木は思った。
「俺の家、どこだっけ。ぜんぜん分かんないな」
 鈴木は漕ぐのをやめて、ボートに寝転がった。
 空はあっさり澄み切っている。カラスの黒い影が舞って、気の抜けた鳴き声が響き渡る。
 波がヒタヒタ小さく聞こえ、なんだか心穏やかになった鈴木は漏らした。
「ま。いいか。どこまでも漂っていくか、これまでのように」

 

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