妻に去られた男が娘にも去られた話 【後編】

第三段
 森や林が黄金色に輝く季節は短い。乾燥なった穀物は倉に納められ、向こう一年の人々の命をつなぐ糧となる。熟し切って自然に枝から離れた林檎の実は、晩秋の冷気に晒されて更に甘さを増す。雪が降り始めると、潰されて絞られ、樽の中で醸されてゆく。橅や楢の森で樹々の落とした堅果を食べて肥え太った豚は、屠られて塩漬けにされたり燻されるなどして冬の間の人々の体を養い支える。樹々を飾る黄金色の葉がすべて枝を離れる頃、半島に新年が訪れる。他国での十一月の一日に当たる。
 大晦日が近づくと、人々は大きな蕪で提灯を作る。中身を刳り抜き中に獣脂の蠟燭を灯すのだ。明かりは三つの穴から漏れるようになっている。三つの穴とはそれぞれ二つの眼窩と鼻が位置していた穴を表している。つまり蕪の提灯とは頭蓋骨の代わりなのだ。
 かつて男たちは戦で討ち取った敵の首を武勇の証として家の門口に飾っていた。親族の首もまた祭壇に安置された。首には神秘的な力が宿ると考えられていたので、敵の霊力を取り込むことによって味方の力の増強を図ったり、親族の霊力によって一族が護られることを願ったのである。
 しかし、アインダールが寝物語に聞かせてくれていた人魚の母を持つ姫を追い詰めた妬み深き父なる神は、人頭に霊力を感じることを悪魔の所業として厳しく排斥した。大いなる祖母神の根本を守るために、半島の民は取捨選択を余儀なくされる。人頭を祀ることをやめ、蕪で作った提灯を飾ることでこれに代えたのだ。大晦日の夜、祖霊たちは門口に吊るされた蕪提灯の明かりを頼りに家に帰って来る。子孫たちは祖霊をもてなし食事を共にする。やがて子孫たちからの歓待に満足した祖霊たちは”あの世”へ帰ってゆくのだが、この晩餐では声を発することが禁じられている。祖霊と子孫は言葉ではなく心で語り合うものとされていたからだ。祖霊が帰った後の役目を終えた蕪提灯は、小さく切られて大釜で煮られる。蕪が煮溶けた頃には東の空に新年の朝日が昇る。
 領主館の大鍋の中の煮溶けた蕪の汁物も底を尽く頃、エベルの曽祖母スカアハが身罷った。齢百を越えた一族の最長老である。エベルの血族のうち、存命の者で彼女の血を引かぬ者はいない。新年の祝賀行事は早々に切り上げられ、一族は青衣に着替えて喪に服した。これより三ヶ月の間、掟により慶事は避けられる。雪に降り込められた領主館は例年よりもしめやかな日々を過ごすこととなった。


 北に開かれた窓は、冬の間は木製の扉と分厚い綴織の窓掛けで閉ざされている。光の射し込まぬ部屋の中は、随所に置かれた蠟燭の灯りだけが頼りである。アインダールと刺繍をしていた窓辺は今は寒気で人を寄せつけようとしない。館の外は空も海も青みを失い、灰白色の風と波が坂巻くおどろおどろしい音が谺している。
 部屋の中央に切られた炉の周りで、ダユーは侍女たちと針仕事をして冬の日々を過ごしていた。アインダールの叔母に当たるコルブナットは最近とみに目が遠くなっていたが、長年の経験と生来の器用さによる針仕事の技倆に衰えはない。麓の集落の老婆の中には、幼い頃に視力を失いながらも針仕事の上手と皆から一目も二目も置かれている者さえいる。それに比べれば、年若い侍女や侍女見習いの少女たちの腕はまだまだである。若手の中で頭ひとつ抜きん出ているのがダユーであった。これもまたなかなかの上手であったアインダールの教えの賜物である。
 毛織物の長衣を着重ねた彼女たちが縫っているのは毛皮の外套であった。冬は狩りの季節である。獲物の肉は食料として、毛皮は衣料として余すところなく利用される。秋の皇帝歓待の鷹狩りの折に皇帝自身の獲物となった狼は、エベルに下賜されていた。その毛皮はケバンによってエベルの外套に仕立てられている。


 冬の期間とスカアハに対する服喪の期間がほぼ重なったため、喪が明けた頃には地元の暦では春になっていた。とはいえそれはあくまでも暦の上での区切りに過ぎず、春めいた気配が漂いはじめるのはまだ先のことである。ただでさえ遅々とした春の訪れを一挙に押し返すような寒の戻りに領内が震えあがっていた頃、帝国内を経巡って民情の視察と行政の監査を行う巡察使が館を訪れた。その男はエベルと面談した際に、本来の職務とは別に皇帝の内意を伝えてきた。
 この地の内情を調査した巡察使が次の地へ向かった夜、ダユーは父から部屋へ呼ばれた。部屋を出るなり炉端でたくわえた温もりを寒気に吹き飛ばされ、思わず外套の前をきつく描き合わせる。枯れ木のように痩せ細った老齢のコルブナットを連れて来なくてよかったと思う。ついて来ようとしたのをダユーが押しとどめたのだ。代わりにダユーの供をしたのはドゥーべサーという年若い侍女であった。アインダール亡き後ダユーの身の回りの世話をしているが、主の意に添う働きはまだできないでいる。ダユーが生まれた時から仕えているアインダールが前任者であるだけに、その至らなさはしばしば主を苛立足せていた。それでも侍女としての務めは果たさなせればならない。外套を引きちぎらんばかりに掻き合わせ、亀のように縮こまっている。さぞや損な役を宛てがわれた不運を呪っているであろう。ダユーは侍女が寒さで失神する前に、領主夫妻の居所になっている棟に急いだ。
 炉に焚べられた薪の爆ぜる音が部屋に響く。ダユーはケバンから林檎種を勧められた。形ばかり口をつけて酒杯を置いたところを見計らって、エベルが口を開く。「巡察使殿はそなたに土産を置いて行かれた」
 エベルはそこでいったん言葉を切った。視線を落とし組んだ指を組み替えているのは、切り出すべき言葉を探しあぐねているからだと娘は見た。
「お館様」
 さりげなくケバンが促す。観念したのか、エベルは顔を上げて娘に告げた。
「そなたに宮中に出仕せよとの皇帝陛下の御内意を携えておいでになったのだ」
 出仕。しばしダユーは出仕という言葉を無感動に反芻した。
「名誉なことではありませんか」
 ケバンが被り物の端から豊かな赤毛を覗かせながら、やさしげな笑顔で取りなす。緑の瞳が活き活きと輝いている。
「お受けせねば、ならないのですね」
 ひとことひとこと選ぶようにダユーは確認した。
「あら、お受けしないなどということがありまして」
 ケバンが大袈裟に驚いて見せる。
「そなたは皇帝陛下の御意に大いに適っているゆえ、謹んでお受けするようにとのことだ」
 エベルが言葉を絞り出す。
「では、謹んでお受け致します」
 姿勢を正してダユーは答えた。指を組み替え組み替え、視線をあえて外していたエベルが娘を見る。ダユーは父の目を見なかった。
「姫の出仕は当家の誉にございます」
 ケバンの声が弾む。
「そのうち姫も、御子を産み参らせる幸いに恵まれるやもしれませぬ」
「埒もない」
 エベルが妻の行き過ぎた言葉を咎める。
「お話、しかと承りました。これにて退がらせていただきます」
 ダユーは席を立つと深々と両親に頭を下げた。退出してゆく娘を父は苦しげに、継母は満足げに見送った。


 藁布団の中の毛皮を引き寄せながら寝返りを打つ。父から聞かされたことが脳裡の隅々まで領して睡魔につけ入る隙を与えない。抗いがたい大きな力が己の行く末を鷲掴みにしている。避けられない運命には従わねばならぬが、父から告げられたことは、親や長老たちが嫁ぎ先や修道院入りを決めるのとは些か趣を異にする。林檎たわわに実るこの土地を離れ、臣従の証である人身御供になるということは、領民も含めた一族の安泰に多少なりとも貢献し得ることなのかもしれない。
 しかし妬み深き父まる神の下僕である老人に仕えれば、好むと好まざるとに拘らず、他の侍妾と寵を争ったり、失寵して一刀のもとに斬り捨てられたり、先ほど継母が口にしたように皇帝の子を産んだりすることになるかもしれないのだ。とりわけ最後の皇帝の子を産むということは考えただけで総毛立つ。そのような目に遭うくらいなら、荒れ狂う海に身を投げた方がましというものだ。生母を失ってからというもの、感情をあまり出さなくなっていたダユーではあったが、この時ばかりは布団を押しのけ発条のように跳ね起きた。アインダールがいればダユーのどんな恐怖も不安もその温かな胸に掻き抱いて和らげてくれたはずだ。生母も乳母もいない今、ダユーは冬の寒さよりも身を切る孤独に一人して耐えねばならなかった。
(もし母上がおわしませば、いかが仰せになったであろう)
 想いは生母に向かう。おそらく、いや、必ずや父や継母とは異なることを言ってくれたに違いない。根拠はなくともダユーには確信があった。その確信ゆえに、今この時生母とともにあらぬことに彼女は言いしれぬ焦燥を覚えた。このようなことで人身御供が務まるのかと己を叱咤してみても、どうすることもできない。死んでしまいたいのはやまやまだが、出仕を拒んで死んだなどということが皇帝の耳に入れば、一族の地が東方由来の馬蹄に蹂躙されるやもしれぬ。ダユーは歯を噛み締める。このようなことになるのであれば、婚約者が亡くなった時点で修道院に入っておくべきであった。ダユーは暢気に日を送り暮らしていた己の幼さが悔やまれてならなかった。
 炉端で寝ずの番をしていた侍女に手燭を持って来させる。寝床からすべり出て唐櫃の一つを開け、中から髪を飾る細帯を手に取る。手燭の明かりを受けて虹色に輝く碧い生地に、真紅の糸で林檎の実が刺繍されている。アインダールやコルブナットでもこうは刺せまいと思えるほどの見事な作ではあるが、完成には到っていない。作り手の母が突然姿を消したからだ。ダユーはの林檎に触れてみる。冷たいはずの真紅の糸に母の血の温もりを感じた。
 ダユーの出仕は速やかに地元の人々の知るところとなった。誰も彼もが己の出仕の準備を進めているようで気が滅入ってくる。寒気を裂いて降り注ぐ陽光に春が兆しても、彼女の心は冬に閉ざされたままであった。


 帝国の東北地方で叛乱が起きた。その地に封じられている諸侯たちが、隣国と結んで皇帝に叛旗を翻したのだ。盟主は皇帝の妹婿でもあったため、皇帝の怒りは大きかった。ただちに移動宮廷は大軍を率いて討伐に向かった。皇帝が親征したことにより、ダユーの出仕は一時棚上げになった。彼女とその父は心から皇帝の陣没を願った。当初早々に叛乱は鎮圧されるものと思われていたが、大方の予想に反して戦況は膠着状態に陥り早期終結という具合にはいかなくなっていた。それでも皇帝側は着実に戦況を優位に展開しつつあった。その報に接する度に、ダユー父娘は落胆のため息を吐かねばならなかった。
 林檎の花が咲く頃、戦いは皇帝側の勝利で終わった。ダユー父娘にとっては極めて遺憾なことに、皇帝は無事に帰還した。至って壮健で、その高齢をもってしても衰えが彼の心身を蝕むには今しばらくの時を要するであろうことは衆目の一致するところであった。国境線に変化はなかったが、隣国からは賠償金と人質を取り、謀反人の領地は皇帝の直轄領として召し上げられた。敗将の妻妾や娘たちは籍没のうえ諸将に分配されたが、容色にすぐれた者は後宮に収容された。
 留守居の皇后や廷臣が待つ王城の地の一つに凱旋した皇帝を、臣民たちは歓呼の声で迎え、教会という教会は神の下僕にして教会の守護者である皇帝の勝利を祝して鐘を鳴らしつづけた。
 

 戦勝の祝賀気分が一段落した頃、エベルの許に五月にダユーを出仕させるべしとの詔勅が届いた。ここに至って館では中断していた出仕のための準備が進められはじめた。指揮を執るのはケバンである。ダユーの装束や装身具など宮中に持参する品々の手配を楽しげに進めてゆく。ダユーは暑い窓掛けを外された明るい窓辺で針仕事をして過ごした。仕事に倦むと、春の空を眺め海を眺めた。
 

 蜜蜂の巣箱が置かれている庭で、林檎の花びらが春の光の中を舞い落ちている。窓を開け放ち、庭を眺めながらエベルとダユーは静かに林檎酒を酌み交わしていた。時折ダユーの指は入洛を練り込んだ焼き菓子に伸びる。父と差し向かいでこのように過ごすのは何年振りだろう。ダユーの心は父の胸に抱かれていた幼い頃に戻っていた。二人の他に部屋に人影はない。礼拝堂付き司祭の書斎を兼ねた客間が父娘の語らいの場として提供されていた。部屋の外を廻る軒廊では、エベルの小姓とダユーの侍女のドゥーべサーが、主たちを憚りながら小声で話に花を咲かせている。若い二人の笑い混じりの話し声を、老司祭は蜜蜂の翅音のように聞きつつ古い椅子の背にもたれ、縁の擦り切れた羊皮紙の書を読んでいた。
 エベルは娘が焼き菓子を食べる様を愛しげに見守っている。父の己に注がれる眼差しに気づいた娘は、春の空を映し込んだ瞳で微笑みを返す。
「そなたは母によく似ている」
 エベルの口から黄金の林檎のひとかけらのような言葉がこぼれ落ちた。思いがけない父の言葉に娘の動きが止まる。
「しかし、そなたの母の瞳の色はそなたの髪の色と同じ深い黒であった」
 父が言葉を切ると、娘は静かに父が言葉を継ぐのを待った。
「そなたの母は、タルティウは、私にとって空であり海であった」
 そう言うと、エベルは娘の瞳を通して空を、そして海を眺めた。エベルのまなうらに映し出されている空と海は、ダユーのまなうらにも広がった。
「……かつて皇帝陛下は海の彼方の島国にも御威光を広めんと思し召し、千隻の戦船を仕立て給うた。彼の国は当時王統が二つに分かれて相争っていた。その一方が密かに己を王位に即けてくれたら皇帝陛下に臣従すると言って来たのだ。陛下は師を起こす勅を発し給い、私は父や叔父たちと陛下の征旗の下に馳せ参じた。波穏やかな夏のことで、私は十七歳であった」
 エベルは若き日の出征譚を静かに語りはじめ、ダユーは父の話に耳を傾けた。一族の男たちと共に終結地の港に赴いたエベルは、海上に要塞のように居並ぶ軍船の巨大さに肝を抜かれた。皇帝軍は島国にもっとも近い海峡を渡り川を遡って都を攻め、王宮の城壁の上に皇帝旗を掲げるまでに要する日数を十日と目算していた。
 将兵と輜重を満載した船団が最短距離で渡海すると、征討軍の正面には切り立った白い岸壁の連なりが現れた。岸壁の切れ目にある河口を目指し、雪白の岩肌を左手に見ながら船団は進路を東北に取る。岸壁は海面に現れた高さに倍する深さの海底からほぼ垂直に天を目がけて聳り立っていた。白銀の鎧のような堅固さで、岸壁は冬場の荒れ狂う波から島国を守っていたが、波穏やかな夏である今、乳酪のようなやさしさで南に広がる大陸の将兵たちを魅了した。彼らの目はいつ果てるとも知れぬ白亜の岸壁に吸い寄せられ、この偉大な造形を唯一神の御業と見て讃仰の念に胸を熱くしていた。
 突然、岸壁の彼方から仔牛のような石が飛んで来た。石は一個二個ではなく雨のように降り注いで来る。巨大な雨粒を真正面から受け止めた者はそのまま潰された。岸壁の奥に広がる平原は弓形(ゆみなり)に窪んでいる。それでなくとも海面から高く聳り立っているのだ。船から岸壁の奥を知ることはできない。姿の見えない投石機から間断なく石が繰り出されてくる。石は海に落ちれば帆柱の高さに迫る勢いの水柱を上げ、船に落ちれば帆柱や船腹、甲板を砕き、将兵を潰した。船が大型であったことが裏目に出た。的は大きければ大きいほどよく当たる。投石機の射程から離れるために各船は我先に沖へ逃れようとしたが、予想外の事態に人心は混乱し収拾がつかなくなっていた。船首を沖へ向けようとして船同士で衝突し、舳先を折ったり味方の船の船腹にまともに突っ込んだりしては双方で沈んだりしていた。そこへ岸壁の陰から無数の舟が現れて皇帝軍の船の逃走を阻んだ。舟は藁束を積んだ小舟を牽いてきて、皇帝軍の船の近くで引き綱を切って素早く逃走する。丸太や油を流して逃げた舟もある。逃げる舟からは皇帝軍の船や自分たちの置き土産に火矢が放たれた。白亜の岸壁の裾が赤々と彩られ、皇帝軍の船は炎に包まれながら次々に海に沈んでいった。
 一方的な惨敗は皇帝の威信を大いに傷つけた。この時船と共に海に沈んだ将兵の中には皇帝の嫡腹の皇子もいた。愛息を失った皇后は王宮を出て修道院に入った。彼女は思う存分腹を痛めた我が子を奪った夫への不満を神に訴えたかったのだが、残念ながらすぐに不実な夫によって連れ戻されてしまう。不実にして不運な夫としては、多くの将兵と息子を失ったばかりか妻にまで逃げられたのでは玉座の座り心地がさらに悪くなるからだ。
 そもそも皇帝が父亡き後、兄弟たちを粛清して受け継いだ帝国を維持し得たのは、皇后の一族の力に負うところが大きい。王朝が交代しても有能な官僚群は生き残る。武力だけでは巨大な帝国を築き維持していくことはできない。皇后の家はそうした官僚貴族の一つであった。しかも彼女の一族は何人もの”神の代理人”を輩出している名門である。皇帝自身、皇后の叔父に当たる”神の代理人”の手によって戴冠しているのだ。戴冠に先立ってこの妻を娶るために最初の嫡妻を修道院に幽閉して自死せしめた過去がある。皇帝にとって修道院と妻という取り合わせはあまり縁起のいいものではなかった。皇帝は皇后を連れ戻して王宮内の一室に監禁したが、皇后所生のもう一人の皇子、まだ九歳の未成年の男子を正式に皇太子に冊立し、硬軟とり混ぜて皇后を繋ぎ止めた。
 皇帝が妻の機嫌を取っていた頃、王子たちと海に沈んだエベルは何処とも知れぬ地で思いもよらぬ日々を過ごしていた。
 炎上する船から海へ飛び込んだエベルは、鎖帷子を死装束に海の底へと沈んでいった。辛うじて意識を保っていた時には視界の端に味方の将兵の自身と同じように沈みゆく姿を捉えていたが、すぐに息苦しくなってもがいているうちに、不思議な静けさと満ち足りた想いに包まれるようになった。まるで母の懐に抱かれているかのような安らかさだ。青い水の彼方から、黒々とした海藻が揺らめきながら近づいてくる。あるいは彼のほうが海藻のほうへ流されて行っていたのかもしれない。鎖帷子に包まれたエベルの軀が海底の白い砂に接するより早く、白い腕が彼の軀を抱きとめた。目を上げると黒い瞳の女が微笑んでいた。揺らめく海藻と見えたのは、彼女の豊かな黒髪であった。死者の国からの迎えが来たと理解したエベルは安堵して目を閉じた。
 

 暖かな陽射しの中、耳に心地よい物音で目が覚めた。薄い亜麻の窓掛けが風に揺れている。肩肘をついて少し軀を起こし、あたりを見る。清潔に整えられた部屋はどこか懐かしく、幼い頃からこの部屋で暮らしているような気がする。何かを思い出そうとしても何も思い出すことはできない。じきに想い出さなければならないようなことは、元々ないのだと思うようになっていった。
 一定の間を刻む物音が少しずつ大きくなってくる。扉が開き、虹色に輝く碧い長衣の女が入ってきた。長いまつげが影を落とす黒い瞳が微笑んでいる。女が何者であるかはわからなかったが、祖母のようにも母のようにも妻のようにも娘のようにも思えた。
 女は手に提げた籠を寝台脇の小卓に置くと、籠の中のりんごをひとつ手に取ってエベルに差し出した。女の唇と同じ色の林檎をひと口かじる。甘く芳しくこの上なく美味ではあったが、なぜかエベルはそのひと口で満足し、ふた口めに進むことはなかった。女の微笑みに翳が差した。
「その女がそなたの母のタルティウだ」
 エベルはその時のタルティウと同じように寂しげに微笑んだ。生母が人界の者ではなかったと知っても、ダユーの心に動揺が生じることはなかった。生母が人界の者ではなかったこと、そのことに自身が驚きを覚えていないことを、彼女は冷静かつ自然に受け止めた。生母についてはこれまで彼女自身思うところがない訳ではなかったからだ。
「ひと口で止めずにまるごとひとつ、いや、籠にあったすべての林檎を食べてしまえばよかったのだ」
 エベルの顔に淡い悔いが広がる。
「父上と母上がお過ごしになったその国は、どのようなところだったのでしょう」 
 初めて聞く父母の馴れ初めは、ダユーの明るい好奇心を掻き立てた。
「どのようなところ…、そうだな、そこではに女人の姿しか目にしなかったが、なぜかそれを不審に思うこともなかった。如何なる憂いとも縁のない地で、森には林檎をはじめさまざまな果樹が枝もたわわに実をつけているというのに花も咲いているのだ。実はいくら摘み取っても次の日には同じ枝に熟れた実が生っている。花の香り、葉の香り、熟した果実の香りが漂い、風にそよぐ梢の葉を透かして木漏れ日が踊っていた。あざやかな色の小鳥たちが飛び交い、それぞれに美しい囀りが重なりあいながら響きわたり聞き飽きることもない。
 私たちは森を抜け、ゆるやかに波打つ広い野辺で、桜草や蕨を摘んだ。時には海辺で貝を拾ったり、海に潜って海藻に尾を巻きつけて揺らめいている海馬と戯れたりもした。
 幸せな日々であったがある日不意に私は故郷のことを思い出し、望郷の念に胸を締めつけられた。それからというもの、私は毎日海を見降ろす高台に登っては故郷を想った。
 タルティウには私の胸のうちがすべてわかっていた。私たちは小さな舟で海へ漕ぎ出した。よく晴れた日だったが進むにつれて霧が立ちこめてきた。濃さは次第に増してゆき、乳色の霧の中で自分の手も見えぬほどであったが、背に感じるタルティウの温もりが私を励ました。
 どれほどの間、霧の中にいたのかはわからない。一日か二日か、あるいは一年か。しかし私は倦むことなく漕ぎ続けた。私たちは何も飲まず何も食べなかったが、飢えと渇きに苛まれることは絶えてなかった。霧が晴れた時、波の彼方に故郷の地が私を迎えてくれていた」
 戦死したものと思われていたエベルの帰還は故郷の人々に神の恩寵として受け止められた。彼と一緒に出征して再び故郷の地を踏んだ者は、その時まで一人としていなかったからである。しかも彼は麗しくも神々しい女性まで伴って帰ってきたのである。日を経ずして人々の祝福のうちに二人は華燭の典を擧げた。
 翌年、二人のもとに女児が生まれた。ダユーと名づけられたその娘は、母の黒髪と父の碧眼を受け継いでいた。エベルは妻となったタルティウと娘を愛育しながら七年の時を共に過ごしたが、やがて二人に別れの時が来た。タルティウは娘と夫を残して去った。エベルが食べた林檎のひとかけらだけでは二人は七年しか共に過ごすせなかったのだ。
「…では、母上は父上が召し上がった林檎の不可思議な力が尽きたことによって『常世の国』へお帰りになったのですね」
「そうだな。そういうことなのであろうな」
「よくぞお話しくださいました」
「そなたが成長したあかつきには話すつもりだったことだ」
 それを今この折に話すということは、このように親しく膝を交えて話す機会はこの先二人には訪れないであろうことを意味していた。生まれ育った地を離れるダユーも辛いが、今なお愛する妻の忘れ形見を手放さねばならないエベルの辛さにも、娘に劣らず耐え難いものがあった。
「こうしていると、タルティウと過ごした彼の地にいるようだ」
 エベルは林檎の木立を見遣った。春の風に舞う花びらは二人の足もとにも散り落ちている。ダユーは床の日溜りで白く輝く花びらを見ながら、母が自分のために刺繍していた細帯の真紅の林檎を想い浮かべていた。


第四段
 中庭の賑わいを他人事のように聞き流しながら、ダユーはドゥーべサーに髪を梳かせていた。主の機嫌がよくないので表には出せなかったが、年若い侍女には主に従って華やかな王城の地へ赴くことが嬉しくてならなかった。生まれ育った地を離れることに対する想いを主従は共有していなかった。ドゥーべサーは主の御気色を損ねぬよう浮かれた気分を抑えているつもりでいたが、疾うに彼女の気分は主の気分を害していた。そうと気づかぬドゥーべサーは、心の中で鼻歌を歌いながら主の豊かな黒髪を飾る細帯を手に取った。それを鏡で見ていたダユーはここぞとばかりに浮かれた侍女を叱責した。
「待ちゃ。何ゆえそれを手にした」
 思いのほか厳しい主の声に、ドゥーべさーの浮かれた気分は一瞬にして消し飛んだ。替わって保身が心を支配する。
「…これは、姫さまが祭事の折などにお付け遊ばす、その、お気に召しておいでの…」
「黙りゃ。林檎の細帯にせよと申したであろう。忘れたか」
 侍女のしどろもどろの言い訳が、さらにダユーを苛立たせる。
「いえ、その、しかしながら…」
「しかしながら、如何した」
 容赦のない主の言葉に恐れをなしたドゥーべサーは、深く膝を折ってか細い声で答える。
「林檎の細帯は刺しかけのお品にて…」
「それが如何した。なんぞ不具合でもあると申すのか。あの細帯はこの身を産み給うた母上が御手づから刺しておいでになった品ぞ。わが産土の地を離れるこの時、母上のご加護を願わずしてなんとする」
 言い募るうちにダユーの怒りと悲しみは抑え難いものとなっていった。上目遣いに主の様子を盗み見たドゥーべさーの目に、忿怒の相をあらわにした大蛇が映った。驚愕のあまり腰を抜かして言葉も出ない無様な様子の侍女に、ダユーが冷ややかに言い放つ。
「出立の刻限が迫っておる。わかっていような」
 まもなくダユーの母譲りの黒髪に、赤く熟れた林檎がたわわに実をつけた。


 春爛漫の晴れ渡る空の下、領主の館から貢女の一行が皇帝の目下の後座所である王城を目指して出立した。ゆるやかに湾曲した下り坂に蹄の音を響かせながら、騎馬の衛兵が領主の紋章を描いた旗を掲げて先頭を進む。衛兵の隊列の後、領主父娘、侍女たちの後には馬子に牽かれた荷駄の列が続く。長持の覆いにも領主の紋章は描かれている。領主館下の集落の家々の門口には、豊穣を司る地母神の依代となる柳の枝が立てられ、山査子や野茨など季節の花で飾られていた。作物のすこやかな成長と稔りを予祝する祭の最中に、ダユーは生まれ故郷を旅立ってゆく。領民たちは、軒の低い藁葺き屋根の家の前で領主の姫君を見送った。彼らのほとんどが、目の前を過ぎてゆく麗しき姫君こそが豊穣の女神であるという想いを抱いていた。女神は華やかな作りの鞍に乗り、彼らを祝福するかのように通り過ぎてゆく。
 館の物見の塔では、領主夫人のケバンが満足そうに一行を見送っていた。連銭葦毛に乗った継娘の前には栗毛に乗った夫がいる。夫は領地の端まで愛娘を送ってゆくのだ。永の別れになるのだからせいぜい別れを惜しませてやろうと思う妻は、己の心の広さに少なからず気を良くしていた。彼女の心そのもののような晴れた空の彼方には、彼女がまだ気づいていない小さな黒い点が生じていた。
 家の戸口で姫君を見送っている母に抱かれた幼女が空を見上げ、黒点に気づく。「あれ」と指差し母の気を引こうとしたが、姫君に釘付けの母の気を引くことはできない。その間にも黒点は静かにその大きさを増してゆく。幼女の近くにいた少年が気づいた時には、それはすでに点ではなくなっていた。
 にわかに空を見上げる者が増えてきた。物見の塔の上にいる領主夫人も、侍女も衛士も空を見上げた。騎馬の兵も馬子も、領主もその娘も、驢馬に乗った年若い粗忽者の侍女も、みな空を見上げた。黒い影が疾風と共に頭上を掠める。一行は目を閉じ手をかざし、風圧から身を守るように軀を傾ける。彼らが再び空を見上げた時には、黒い影は驚くべき速さで北の空へ飛び去っていた。
 若い女の悲鳴が上がった。驢馬に乗った侍女が頬を両手で押さえながら叫ぶ。「姫さま、姫さまのお姿がありませぬ」
 ダユーの前にいた者たちが一斉に振り向く。若い娘にふさわしい色染めの革を縫い合わせて作られた鞍の上に、ダユーの姿はなかった。一行も領民たちも起こったことに理解が及ばず、まともに身動きを取ることができない。時が経つにつれ、さざ波のように囁き交わす声が広がってゆく。皆が皆、己が何をするべきか判断しかねている。
 消えた娘の父が馬を降り、路上に片膝を突いて林檎を刺繍した細帯を拾い上げた。黒い影にさらわれた時、娘の髪から落ちたものだ。しかし、彼エベルには細帯がそこにあることの意味を理解することができた。細帯は風の勢いでただ落ちたのではなく、彼の許を去った者たちが形見に残していったものだということを。
 彼は真紅の糸で盛り上げた林檎のひとつに触れてみる。その手触りは、かつて常世の国でタルティウに差し出された林檎の手触りにほかならなかった。


 深い霧の中でダユーは温かな母の胸に抱かれ、求め続けていた至福の時を過ごしていた。そこには生も死もなく、彼女は人の世に生まれる前にいた場所に戻りつつあった。薄れてゆく意識の中で母に訊ねる。
「母上はなにゆえ私をお産みあそばしたのでしょうか」
 母の声は、ダユーの心とも肉体ともつかぬものの中に温かな乳のように染み入ってきた。
「我らはこの世の始まりとともにあるもの。人は本来我らの子。されど人はそれを忘れてしまった。それを思い出させるためじゃ。しかし思い出せぬ者があまりに多いゆえ、そなたを連れ帰ることにした」
 母の言葉がダユーのすべてに甘やかに染みわたるにつれ、ダユーと母の境は失われて、その意識は静かに消滅した。


 潮風に乗って波打ち際に降り立ったタルティウは、暖かな陽射しの中で軀を振るわせる。日の光に燦く翼の羽根の一枚一枚に、彼女の息遣いに従って微妙な陰翳が生じる。精妙な色合いの中には、時として祖母の、母の、娘の顔が浮かび上がる。彼女の翼の七色に輝く碧い羽根は、鳥となって空へ飛び去ってゆき、下肢の七色に輝く碧い鱗は魚となって海へ泳ぎ去ってゆく。肌に心地よい浜辺の砂を踏みしめながら、祖母のようでもあり、母のようでもあり、娘のようでもある女が丘へと歩いてゆく。緑芳しい丘の上から女たちが姿を現す。いずれの女も祖母のようでもあり、母のようでもあり、娘のようでもあった。女たちは、空と海の交わる地で風と共に消えていった。


 耕した畑土に穀物の種が播かれてゆく。豆や亜麻の種も播かれる。潮風に吹かれる放牧地では羊が草たちを食み、開墾地に放された豚たちは、秋の森が堅果を降らせるまでは鼻で地面を掘り起こし、虫や根茎を食べている。
 農繁期を迎えた領地は生命の息吹に沸き返っていた。忙しくも活力に満ちたこの時期には揉め事も多い。当事者の間で決着をつけられなかった案件は、領主の許へ持ち込まれる。エベルは領主として彼らの訴えに適切な裁定を下し、領民の困りごとに耳を傾けるために定期的に領内を巡回する。
 ケバンは領主夫人として館の内に君臨し、彼女に与えられている権限を行使していた。この時期は、侍女や下女たちに刈り取った羊の毛を紡がせ機を織らせる。彼女自身もまた杼を手にした。
 開墾作業の監督官と鍛治職人の間で起こった鋤の品質と対価に関する訴訟を裁いた後、エベルはわずかな暇があることに気づいた。この恩寵とも言えるひと時を、彼は礼拝堂で過ごすことにした。午後の陽射しが暖かに差し込む堂内で、安置された聖母子像にぬかづく。顔を上げ、像の顔を見る。聖祖母はタルティウ、タルティウの膝に座る聖母はダユー、ダユーの腕に抱かれた御子神はエベル自身であった。少なくともエベルの目にはそう映った。
 腰帯に吊るした巾着の中からタルティウとダユーの形見の細帯を取り出す。虹色に輝く碧い生地の上で瑞々しい林檎が甘い香りを放っている。細帯を握りしめてエベルは外に出た。
 幼い子供たちの楽しげな悲鳴が上がる。ミリャとエスナッドがはしゃぎながら走り去ってゆく。兄妹を燕が追っている。恐らく二人は燕の親が雛たちに餌を与えるのを長く見過ぎ、親鳥を怒らせたのであろう。
 エベルは子供たちが走り去るのを笑顔で見送ると、近くの林檎の樹を見上げた。花の散った枝のそこかしこに小さな実が育っている。常世の女は至るところで彼を見守っていた。エベルは大切な細帯を巾着に仕舞うと、碧空の下を館のほうへ歩いていった。
 ちなみに、ダユー失踪の報に接する前に、唐突に皇帝は世を去った。傍目には壮健に見えてはいたが、彼の内側では年相応の老いが着実に進行していたということであろう。彼のために盛大な葬儀が営まれ、壮麗な陵墓が造営されたが、その冥福を心から祈った者がいたかどうかは定かではない。

               完
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