「笑い」の友へ

 人生最大の緊張した瞬間は、憧れの先輩にバレンタインチョコを渡すときでもなければ、3000メートル上空からスカイダイビングをしたときでもなく、お笑い芸人の集う劇場に学生時代の友人と出演したときだった。舞台袖での待機中、以後二度と使うことのなかった私たちのコンビ名を司会者に告げられた瞬間、文字通り、心臓が飛び出すほどの緊張感に襲われた。逃げ出したくなったがやるっきゃない。(時代を感じる表現だなー)
 舞台に出てしまえばこっちのもの、ともならなかった。ひとつも笑いが返ってこない。他の舞台芸術、芸能ならば、水を打ったように静まり返る客席というのは賞賛の表われでもあるだろう。よしんば真逆の反応であったとしても表面上はわかりようがない。だが、「お笑い」は別だ。笑いが起きなければ客の一人ひとりの胸の内は自ずと知れ、おもしろくない、しかないのだからして。
 冷ややかな空気を逆手にとって笑いに変えていくなどという芸当が初舞台の私たちにあるはずもなく、意気消沈しながら舞台を降りると、次の出演者であるピン芸人のひとことで客席がどっと沸いた。
 「なんでしょうねー、いまのは。OLの昼休みじゃないんだから」
 なんという言い草だ。「胃がいたいー」と私たちは顔を見合わせた。ひとりじゃなくて助かった。針のむしろの楽屋へ戻るのはいたたまれず、後方のドアからそっと客席へまわった。のちにお笑い第四世代と呼ばれ活躍するようになる漫才、コントなどの若手芸人たちが目白押しに出演した。私が注目し声を出して笑ったのはたったひと組だけだったが、上演時間中、会場は爆笑の渦だった。

 前日までの期待が嘘のようにせつなく思い出される。

 お笑い芸人を目指していたわけではなかったが、ひょんなことから声がかかり、ひとりで出る勇気がなかったので友人を誘った。どこの教室にもひとりはいるおもしろい子、というのが彼女だった。あとにもさきにも私と同じスピードでしゃべり、主語をすっとばしてもツーカーでわかりあい、笑いのセンスが合う子は他に見当たらない。
 卒業してから5、6年は経っていただろうか。就職した会社をそれぞれ辞め、回り道をしているかのように見えた私たちは、会えばいつも笑い話が絶えず、人生どう転がってもそれだけは手放さないでいることがお互いの強みだと思っていた。

 タイに彼女が留学していたときのこと。タイ人相手にも笑いをさそっていたらしいが、受けないネタがあったという。タイのお札を蛇腹《じゃばら》に折って、「プミポンが笑ってるー、怒ってるー」と、お札に描かれたプミポン国王の顔を変化させて見せた。場が凍りつく。不敬罪になりかねない行為だと注意されたが、どこふく風。「でもさー、きびしい顔しながら、彼ら肩ふるわせてたからね。噴き出す寸前だったんだよ、きっと」

 たった一度きりで終わったコントの詳細は忘れてしまったが、NHK教育テレビの語学や教養講座をパロディにしたもので、あーだこーだ言いながら二人で一緒に作った。稽古場は某高級ホテルのパウダールーム。聞こえはいいが、ようするにトイレの脇にあるスペースだ。平日の昼間は人影少なく、長居が出来、おまけに大きな鏡がある。誇張したお互いの表情やアクションに笑いがとまらず、本番は自分たちが笑ってしまったらコントにならないから気をつけなくちゃと言いながら、客席の反応を想像して悦に浸っていた。
 気分はすっかり芸能人で、そのうちアジア音楽を中心としたラジオ番組のDJをやりたいねーなどと話したりした。 

 若手芸人の登竜門であるお笑いライブではあったが、すでにテレビに出はじめファンがついている人たちもいた。門外漢の私たちは「おはようございます」などと挨拶を交わす業界用語になじめず、「どこの事務所ですか?」と聞かれ口ごもり、あちこちで輪ができているよもやま話にも加われず、所在なさげにうろうろ動き回った。本番前には新人らしき人たちが壁に向かってネタの練習をしていた。
 「ライブはライブでも全然雰囲気が違うね」と目配せしあう。彼女と私は学生時代一緒にバンドを組んでいた。音楽ライブなら、緊張はしても、演奏がはじまれば音の波に押され、多少のミスが生じても達成感はある程度感じられる。しかし、「お笑い」は違った。完璧に打ちのめされる。穴があったら入りたいなんてもんじゃない。入ったら最後、外には絶対出たくなくなる。
 終演後、そそくさと劇場をあとにし、身内の慰めの言葉を聞きながら食事した。「内容は一番良かったよ」、「客層が異なればもっと受けたはず」、「私はおもしろかったけどー」。でも誰も次を期待するとは言わなかった。

 「わー、ほら見て。手のひらが汗でべとべと」
 舞台袖で友人がつぶやいた。彼女にとっても人生最大の緊張の瞬間は、そのときだったかもしれない。「ねえ、そうだった?」と聞いてみたいが、もう答えが返ってくることはない。

 東京を離れた私は、ここ十年ほど彼女とは会っていなかった。訃報はSNSを通じて飛び込んできた。面識のない彼女の友人にメッセージを送り、最期のときを知った。「あちらの世界でも周りを笑わせているでしょうね」と、その人が書いてきたので、若いころ一緒にお笑いライブに出たことがあると秘密を打ち明けるように伝えると、「彼女から聞いたことがあります。そのときのお友だちなのですね」と返ってきた。

 笑えないコントの話を、笑いを誘うようにきっと話していたに違いない。闘病のときに彼女を支えていたのが不屈の笑いの精神であったろうと想像し、冥福を祈った。

 

 

 

 

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