第四話
「ふへぇ……」
小麦で出来たウドンなる細縄で腹を満たした後、エマに連れ込まれたのはフロなるもの。服を剥がれ、全身を泡でもみくちゃにされたかと思えば湯を張ったでっかい桶に突っ込まれ、今では活発になった血の巡りによって指先までぽかぽか。腹が満たされ、冷え切っていた体が芯まで温もれば眠くなるのが人というもの。エマから借りた寝間着のふわふわな着心地も相まって、瞼がとろりと落ちてくる。
「エレノアさん、髪の毛乾かしますよ」
「うむ……?」
耳元で轟音、そして熱風。催していた眠気も吹き飛ばされるというもの。何事かと振り返ろうとすれば。
「ちょっと、動かないでください」
エマの左手がわしの髪に触れて、熱風を当てる。その反対の手には見た事もない形の物体を握っていて、轟音と熱風はそれから出ているようだ。
「それは髪を乾かす為の物かえ?」
「はい。ドライヤーって言います」
「これにはどんな術式が組まれておるんじゃ?」
「術式?」
「魔法を行使するには魔法陣やら呪文やら必要じゃろう」
「魔法……じゃないですね」
「ではこのドライヤーなるものはどう動いているんじゃ?」
「え、えっと……ごめんなさい、よくわからないです」
「仕組みがわからんものを何の疑問もなく使っておるのか……」
「気にする人なんてかなり少数だと思いますよ」
熱風が出ているのだから火と風を起こす術式が組まれているのは確実。髪を燃やさぬよう火力には細心の注意を払って……。
「……エマ、そのドライヤーとやらを止めよ」
「え?」
「簡単なものだが術式を組み上げた。ちょうど良い、この身を得て初めての魔法と行こう」
とはいえこの地獄で目覚める前も長らく魔法を使ってはおらなんだ。久々の魔法、上手くいくと良いが。
「……風に溶けし火の子供、光が愛した叡智の名の下にその力を示せ」
言の葉に魔力を乗せて詠唱すれば、ふわりと暖かな風が吹いて濡れた髪を包み込む。ドライヤーよりも遥かに静かな風だが確実に髪を乾かしてくれる。そうら、ものの一、二分でわしの髪が乾いた。うむ、この体にもちゃんと魔力と魔力を扱う為の力が備わっておるようだ。
「どれ、次はお前の番じゃ。じっとしておれ。風に溶けし火の子供……」
腰まで伸ばしたわしの髪よりも遥かに短いエマの髪、肩までの長さしかない栗毛ならばほんに一瞬の出来事。髪が揺れたと思えばもう乾いた。
「ほれ、乾いたぞ」
「え、嘘。もう?」
「火と風を合わせて髪を乾かす、ニホンの民は面白いことを考えるの。わしにはとんと思いつかなんだわ」
乾いたばかりの髪を指先で弄ぶ。巻き癖の強いゴールデンブロンド、前の生の頃の特徴をそのまま持ってきたようじゃ。先程フロ場の鏡で見た瞳も弟子達と共に生きておった頃のまま、夜空の紫に染まったまま。懐かしいような、気恥しいような、若かりし頃の姿を今再び目にするとは。
「のう、エマ」
「何でしょう?」
「この国は、ニホンという国には魔法が無いのか?」
「この国……どころか、世界に魔法がないんです」
「では先程水を出したり、火を付けていたのは魔法では無いと?」
「はい」
「わしからすればあれらの方が魔法に見えるがなぁ……」
「発達した科学は魔法と見分けがつかない、とは言いますけど……魔法を使う人から見ても魔法に見えるんですね」
「カガク、それがあの術式の名前か?」
「術式……まあそれでだいたい合ってると思います」
「ふむ……。目が覚めた時はとんでもない所に来てしもうたもんじゃと思うたが、やはりとんでもない所に来てしもうたのう……」
ニホンでは、床に直接寝転んで寝るらしい。薄っぺらい布団を床に敷いて、その上に寝転べば大あくび。今日は疲れた。目覚めたのが昼前と遅めであったが、如何せん今日は色々とありすぎた。
「エマ、今日はすまぬな。憲兵からの詰問に助け舟を出してくれたと思えば、飯と宿まで」
「いえ、そんな」
「……わしが死んで、どれほどの時が経った世界なのじゃろうな、ここは。わからぬことだらけじゃ……」
わからないことだらけ、その中での気がかりはやはり遺してきた弟子達の事。願わくば、皆幸せで。どれほどの時が流れたのかすらわからぬ今では、彼らも生きてはおるまいが。わしらの生きていた場所では、人は皆死ねば神の御手の中へと還り、審判の時を待つと言われておった。それが確かなのであれば、皆今頃。どんな状況であれ、痛みも苦しみも悲しみもなければ、ただそれで良い。
ああ、今日はもう襲い来る睡魔に身を委ねるとしよう。次に目が覚めた時、神の御手の中だったりはせんだろうか。そうであれば、あの子達にも会えるであろうに。
「……おやすみなさい、エレノアさん」
そう言って、エマが布団をかけてくれた。ほんにお前は優しい子じゃ。エマ、わしの可愛い弟子、エマ。我が弟子と同じ名を持つ若者も、我が弟子に負けず劣らずの子。遥か遠き異国の地で出会うとは思わなんだ。おやすみ、エマ、恵真。明日のお前に神の加護があるように祈ろう。かつて人々におばば様と呼ばれた魔女は、遥か遠き異国の地で眠りに就く。今は遥か遠き故郷に遺してきた我が子達を想いながら。
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