東京藝大で教わるはじめての美学 

 東京藝大で教わるはじめての美学という本を読んでいる。芸術論とかは読んだことある気はするが、美学 というのが そもそも 1 つの 哲学的な分野としてあるっていう認識がなかった。私は哲学に最近興味があるが、中でも美学に興味があるんだと思う。自分が求めていたのは、美学 というジャンルの哲学だったように思う。私が 哲学の生き方とかについて考えるのは、そちらの方がより美しく、人として美しくあると思うからである。 


美しいとは何なのか という声がかかってくる。美しいというものを一つ一つ言語化していくのは難しい。その人間が歩んできたこれまでの人生観とか、場合によって文化的な背景から生まれた偏見 などが盛り込まれた上での美の基準というものが 植え付けられていると思うからである。私は美しいと思うもの、感覚的なもの。文化的に裏付けられた上でそう思うもの。いろんなものがあるが、どちらも踏まえた上で 芸術論的な話じゃなくて、ただ美しいと私が思うものについて考えたいという感じだと思う。
 それ 現代アート的なものからは少し離れていると思う。自然物を描写して美しいと思うとか、そちらに近い気がする。パフォーマンスアートみたいなものも嫌いなわけじゃないけれど、若干 私のしたいこととは ズレてる気がする。人がしてるのみるのは好きだけど、自分はあんまりやらない。意味を問いかける価値を問いかける、そういうアートも面白いけど、私はそれこそ キャンバス絵の具を持って盛って盛って書いていく。昔ながらの作品制作の方が好きだし、美しいと思う。人間の積み重ねた。技術の中で生まれるものに美を見いだしているんだと、それこそ 著作の中でもあったけれども、例えば 橋を作るとして。、構想段階の橋がある。
 だが実際に作るとなった時、その橋は 例えば 石造りの橋であれば、実際の石という 材料からの制約を受けざる得ないであるからこそ、建設された橋は美しいのである。その物質的な美しさを備えているから美しいということだ。私もそのように感じる。私は紙面に書かれた構想も好きだが、それが現実のものとなって立ち現れた時の姿が好きだ。私はよくある、自然派 みたいなものじゃない。なぜなら 自然を破壊して作った人間が作ったものが好きだからってある。この辺りが 私の行動の矛盾である。資本主義体制にめちゃくちゃ 文句を言いながらも、私はその中で作られている、人間の作ったものに価値を置き、それらを愛しているのである。
 自然崇拝的なものとも違うが、それらの要素が私の中にいないわけではない。この矛盾の中で、私はどう生き方と定義していくか を迷っている。試行錯誤してる途中である。商業主義を批判しながら、商業主義に則っとった作品を作って販売して糧を得ている。
 その矛盾と それ自体が 私にとって美しいものであると悲しき事実である。私はそういうものを愛しているのである。 


この矛盾に 無自覚な人間は怖い。自覚的でありながらも それでも作っている人間が私は好きなんだと思う。そういう人間の作ったものにある美しい作品の中に薫るほのぐらさを集めてる。

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