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意志の自由(ピーター・ストローソン)

ソクラテス:本日は、現代哲学における自由意志に関する議論の中心人物の一人、ピーター・ストローソンさんと対話を行います。ストローソンさんは、特に「反応的態度」という概念を通じて、自由意志と道徳責任の問題を考察しています。ストローソンさん、あなたの考えによると、「意志の自由」とは何でしょうか?

ピーター・ストローソン:「意志の自由」という概念を、私は道徳的責任の文脈で考えています。私の論文「自由と怒り」では、我々の個人間の関係において「反応的態度」がどのように意志の自由を前提としているかを探求しました。怒りや感謝、愛などの感情は、他者が責任を持って行動する自由な主体として認識されることに基づいています。

ソクラテス:なるほど、個人の感情的な反応を、意志の自由の証として見ているわけですね。それでは、反応的態度がどのようにして意志の自由を前提とするのか、もう少し詳しく教えてもらえますか?

ピーター・ストローソン:もちろんです。人間関係において我々が持つ反応的態度は、相手が自分の行動に対してある種の責任を持っていると見なすことから生じます。例えば、誰かが意図的に私を傷つけた時、私は怒りを感じます。この怒りは、その人がその行動に対して責任があると私が考えるからです。彼または彼女が単に自然現象であったり、完全に制御不能な状態にあったりした場合、私たちの感情的な反応は異なるでしょう。

ソクラテス:しかし、すべての人が自由な意志を持っていると考えるのは、実際には問題があるように感じます。例えば、重大な精神障害を持つ人々や、極度の社会的・経済的圧力下にある人々が、本当に「自由」に意志を行使できると言えるでしょうか?

ピーター・ストローソン:確かに、そのような特別な状況は、私たちが考慮すべき重要な例外です。特別な状況においては、私たちはしばしば「免除」を与え、通常の反応的態度を一時的に停止することが認められています。しかし、これらの例外があるとしても、日常生活における我々の相互作用の大部分は、他者が意志の自由を持っているという前提に基づいています。この前提を完全に取り除くことは、私たちの社会的実践と人間関係の構造を根本的に変えてしまうでしょう。

ソクラテス:そうですね、日常生活での相互作用の前提を根底から変えるのは困難でしょう。しかし、意志の自由に関するあなたの見解は、因果律や物理的世界の決定論とどのように整合しますか?

ピーター・ストローソン:私の考えでは、意志の自由と決定論は必ずしも相互排他的ではありません。重要なのは、私たちがどのように人間の行為と道徳的責任を理解し、それに応じて反応するかです。決定論が真であっても、私たちが持つ反応的態度や社会的実践は依然として意味を持ち、有効です。意志の自由の議論は、これらの実践をどのように解釈し、価値を見出すかに焦点を当てるべきです。

ソクラテス:そうですか、あなたは決定論と意志の自由を両立させる道を見出しているんですね。では、あなたの理論では、人はどのようにして「道徳的責任」を負うことができるのでしょうか? もしすべてが因果律によって決定されているならば、個人の責任はどのように存在するのでしょうか?

ピーター・ストローソン:道徳的責任を負う能力は、私たちの反応的態度と社会的実践に根ざしています。これらは、物理的な因果関係を超えたものです。人間が道徳的責任を負うのは、彼らが社会的、感情的な生き物であり、そのような態度と実践に参加できるからです。決定論が真であったとしても、私たちは依然として人々を道徳的主体として扱い、彼らの行動に対して感情的な反応を持つことができます。このプロセスは、個人が自分の行動に対してどのように感じ、反応するかに影響を及ぼし、結果として社会的責任感を形成します。

ソクラテス:あなたの考えは非常に興味深いですね。あなたは、意志の自由と道徳的責任を、人間関係の実践と感情的な反応の枠組みの中で理解しようとしています。しかし、このアプローチは、意志の自由が実際に存在するかどうか、そしてそれがどのようにして可能であるかについての根本的な疑問を解決するものではないようです。意志の自由を社会的実践の有用性や効果に還元することで、その存在の問題を回避しているだけではないでしょうか? もし意志の自由が単なる幻想であるとしたら、私たちの道徳的責任に対する理解はどう変わるべきでしょうか?

ピーター・ストローソン:そのような疑問は非常に重要ですね。意志の自由が幻想であると仮定しても、私たちの社会的実践や感情的な反応は依然として価値を持ちます。なぜなら、これらは人間関係を築き、社会を形成する基礎だからです。意志の自由が実際には存在しないとしても、私たちは依然として行動の結果に責任を持ち、互いに反応し続けるでしょう。このプロセスは、道徳的責任の感覚を形成し、社会的な秩序を維持するのに不可欠です。

ソクラテス:つまり、あなたは意志の自由の実在性よりも、私たちの反応や実践の有用性や効果を重視しているわけですね。それは興味深い見方です。しかし、このような見方が私たちの道徳的判断や責任感に与える影響については、どう考えていますか?

ピーター・ストローソン:私たちの道徳的判断や責任感は、実際には意志の自由の存在に依存するものではなく、人間としての私たちの深い関係性や相互作用に根ざしています。私たちは、他者に対して感じる共感や、行動の結果に対する反応を通じて、道徳的責任を認識します。この視点からは、意志の自由が物理的な世界の法則によって完全に決定されているとしても、私たちの社会的な実践と感情的な反応は変わらず重要です。

ソクラテス:確かに、人間の行動や関係性を理解する上で、実践と反応の役割は否定できません。あなたの考えは、道徳的責任を考える新しい視点を提供しています。しかし、意志の自由に関する根本的な問題への答えを求める探究は、依然として重要だと思います。私たちの理解を深め、より良い道徳的実践を目指すためには、この問題に対する継続的な思索が必要です。

ピーター・ストローソン:ソクラテスさんのおっしゃる通りです。意志の自由に関する議論は、私たちの哲学的探究の中心をなす問題です。この問題に対する答えを模索することは、私たちが人間としてどのように行動し、相互に関わり合うかを深く理解する手がかりを提供します。私たちの対話が、この探究を促進する一助となれば幸いです。

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