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§34-2ハイデガー『カントと形而上学の問題』ゼミノート(24.4.30分)

ペーパーバックで買いました。今まではPDFで見ていたけど、授業中にタブレットでこれと邦訳と『純粋理性批判』の参照箇所を見るのが大変だったので。やっぱ紙に書き込むのはいいですね。

190b:純粋直観は純粋自己触発である

純粋理性批判の内的な問題にとっての決定的な前提を際立たせることによって、認識の有限性〔という問題〕が中心点へと引き戻されたのである。認識の有限性とは、直観することの、すなわち、受け取ることHinnehmenの有限性に由来する。

GA3, S.190,Z.7-11

前回までの箇所(すべての表象は内感に属する・内感の形式は時間である→すべての表象は時間の自己触発的な構造に準拠する)を踏まえて、「認識の有限性」が直観の有限性に根付いていることが明らかになり、再び直観の有限性に話を戻そうということを言っています。そもそもこの本では、4節と5節において認識作用が直感に大きく依拠するものであり、人間の直観が受容的なものであるから、直観に従う形で人間の認識は有限的であると言われています。
また、前回の最後の部分で問題になった、時間が自己を形成するという問題が扱われています。

純粋認識、すなわち対立するもの一般の認識、つまり純粋概念は、それゆえ受け入れる能力である直観に基づいている。純粋に引き受けることはしかし、経験から自由に触発されること、すなわち自らを触発することを意味するのだ。

GA3, S.190,Z.11-15

最初の引用箇所では正直なところ、なぜ時間の問題から直観の問題へと話が戻るのかがわかりません。そこで、この引用箇所では、直観を触発という面から捉え直しすことで最初の問題提起の正当化を行なっているのです。
まず、直観は与えられるものによって触発されることです。そして、いま問題になっているのは、有限的存在者=人間の認識能力一般の特徴づけですが、これを行うには純粋な認識能力を解明しなくてはいけない。直観に関しては純粋直観が取り沙汰されるわけですが、純粋直観は「自らを触発すること」と捉え直されます。

対立させること、地平形成みたいな話と、純粋自己触発という形での純粋直観の基礎づけ?

190c:純粋自己触発としての時間は概念を基礎付ける直観である

純粋自己触発としての時間は、次のような有限な直観である。すなわち、本質的に直観への奉仕的地位にある純粋概念を(純粋悟性を)一般的に担い、そして可能ならしめるところの有限的な直観である。

GA3, S.190,Z.16-19

先に、認識(直観+概念)の有限性が直観の有限性に由来することが言われました。その時点では、直観が認識においてより重要であるから、直感が有限であれば認識は有限になるということで、ひとまず直観と概念を切り離して考えることができました。
ところがここでは、より進んで直観である時間が概念を「一般的に担い」「可能ならしめる」ということで、概念の基礎付を行なっているということが言われます。

190d:純粋自己触発は第一版ですでに論じられている

純粋自己触発という理念は、ここで明らかになったように、超越のもっとも内的な本質を規定するものであるのだが、これをカントはそれゆえ、第二版においては初めて導入したのではない。ここ〔第二版〕では、この理念はただ、超越論的感性論においてより明白に、より特徴的にフォーミュレイトされているだけである。

GA3, S.190,Z.20-26

ハイデガーは有限的存在者=人間の認識を可能にする条件を「超越」と呼んでいます。形式的に言えば、ここのでの認識論は「超越」を記述することになります。そして、直観と悟性が純粋自己触発と、それによって規定されるものとして記述されたいま、純粋自己触発は超越の中心的な特徴(「もっとも内的な本質」)となったのです。
そして、ハイデガーがここで論じているカントの『純粋理性批判』の第二版で一見この純粋自己触発が初めて登場したように見えるが、実はそうではないと言っています。
いま検討している純粋悟性概念の超越論的演繹の箇所は、『純粋理性批判』の第一版と第二版で記述が大きく変わっています。どちらにせよここで論じられるべきなのは、感性を通って与えられる直観と悟性の概念がいかにして結びつくのか(総合)ということですが、第一版では完成から始まって悟性に到達する道、第二版では悟性から始まって感性に下る道というふうに、総合が逆方向から描かれています(久保陽一『ドイツ観念論とは何か』ちくま学芸文庫)。この辺りの記述の違いが純粋自己触発にも影響しているとハイデガーは意識しているのでしょう。
要点としては、純粋自己触発という直観の側面が第二版においてより詳細に論じているために、もっぱら第二版のみが自己触発の問題を扱っているという印象を与えたと言っているのでしょう。

まったく、根拠付けの諸段階とその根源的な把握の前述の記述を通して遂行されるべき見通しが解釈に欠けている限り、この箇所は曖昧なままに止まるのである。この見通しの内部では、もちろんこの箇所はほとんど「自明的」なのである。

GA3, S.190,Z.26-31

ここはハイデガーが自分の解釈を自賛しているところですね。「根拠付の諸段階」とは、いま訳読している箇所より以前で行われていたものです。序論のところに要点が載っていますが、カントの純粋理性批判を形而上学の根拠づけとして読むときに、読解のラインとしてハイデガーは「発端」「遂行」「根源性」「反復」の四つのラインを提示しています(それぞれ詳述を要するものではあるけど、とりあえずこれで勘弁してください)。

190e:純粋な関係=直観の形式=純粋自己触発=内感

いまや、表象として、なにかあるものを考えるあらゆる働きに先行できるのは直観である。そして、この直観が関係以外の何も含まない場合には、直観の形式である。この形式は、なにかが心において定立される場合の他には何も表象しないのであるから、この形式は次のようなあり方以外ではあり得ない。つまり、関係が表象の定立※という独特の働きを通して、それゆえ、自分自身を通して自身を触発するという働きであるが、これはその形式から見て内感なのである。
※前掲箇所。「その表象」を「心の表象」へと変更する提案は、

GA3, S.190, Z.191,Z.27-S.191, Z.6


ここは一段落丸ごとカントからの引用になっています。B67からB68にかけての箇所です。割に論旨は一貫しているので特に補足はしませんが、純粋な関係(純粋な直観、対象のない直観)=直観の形式=純粋自己触発=内感という定式です。

191b:自己触発と自己の相互的な基礎づけ関係

感官は有限的な直観を意味する。感官の形式は純粋に受け取ることである。内感は「外から」受け取ることはなく、自分自身から受け取るのである。

GA3, S.191,Z.7-9

純粋自己触発を人間のあらゆる認識の要素に敷衍させるときに、内感の形式である時間を経由することになります。また、一つ前の段落で、
カントの言葉で純粋自己触発はその形式からして内感であるということが言われました。そのため、ここでは内感の特徴づけになっています。まず、内感は感官(外的感覚)と違って、「自分自身から」受け取るという構造を持っています。なお、のちに登場する「心」は内感と同義に捉えています。

内的な触発は、純粋な受け取りにおいて純粋自己から由来しなくてはいけない。つまり、内的な触発は、自己性そのものの本質において形作られ、そのことによって内的な触発は初めて自己性を構成しなくてはいけないのである。

GA3, S.191,Z.9-12

純粋自己触発を認識のあらゆる要素に敷衍させるにあたって、さらに純粋自己触発そのものを基礎付けようとしています。そして、その基礎となるものは、純粋直観における「純粋自己」です。「自己」というものは前回の範囲で189cからdにおいて述べられたと思います。そこでは、「立ち向かわれうる」ということが自己性の本質となっています。
しかし、自己に基礎付けられるところの触発が「自己性を構成しなくてはいけない」とあることから、単純に「自己」という土台が存在して、その上に「自己触発」という家が建つのではありません。
触発は「自己性そのものの本質において形作られ」とあることから、自己というものが存在するのであれば、触発はその働きとしてあり、そして、自己性は触発という働きを行うことによって、自己であるという、同時的な、循環的な基礎づけ構造があるのでしょう。

純粋な自己触発は有限な自己そのものとしての超越論的な根源構造を与えるのである。それゆえ、心というものが実在して、例えば自分でなにかを自分自身に関係づけて自己定立を遂行するのではまったくない。そうではなくて、この「自分-から-出て-に-向かう」と「自分-に-戻って」が、有限的な自己としての心の心的性格をまさに初めて構成するのである。

GA3, S.191,Z.12-18

「心」は内感とイコールだと述べました。ここではさらに、「心」が「自己」とイコール、あるいは多くの部分で「自己」と重なるものだと考えられているのでしょう。つまり、心を作ることは自己を作ることです。
一つ前の引用で自己と触発の同時的、相互的な基礎付け関係を確認しましたが、ここではむしろ触発が、「自分-から-出て-に-向かう」と「自分-に-戻って」という自己触発の動きが自己、あるいは心の基礎になっているという部分が強調されます。

191c:純粋自己触発である時間は純粋統覚の中にある

このことからしかし、次のことが一挙に明らかになる。すなわち、純粋自己触発としての時間は純粋統覚「と並んで」「心の中に」現れるのではなく、時間は自己性が可能になる根拠として純粋統覚の中にすでに存し、そのようにして初めて心を心たらしめているのである。

GA3, S.191,Z.19-23

前段落では、自己=心=内感と自己触発が相互に基礎付けていると述べましたが、むしろ、純粋自己触発である時間が根源的だそうです。そして、その時間は「純粋統覚の中に」あるのです。

191d:時間性格に従った統覚の分析の宣言

純粋で有限の自己は自らのうちに時間性格を持っているのである。しかし、私、つまり純粋理性がその本質に従って時間的であるのならば、まさにこの時間性格にしたがって初めて、カントが超越論的統覚に関して与えている決定的な規定が理解可能な者になるのである。

GA3, S.191,Z.24-28

時間は純粋統覚の中にあると言われましたが、この純粋統覚もまた、時間性格に従った分析をすることによって初めて明らかになると言われます。今回のゼミの範囲はここまでですが、この段落は次回以降の統覚の分析の準備部分でしょう。

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