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レヴィナス「ヒトラー主義哲学に関する若干の省察」ノート2/3

こんにちは。今日もレヴィナスの論文を読んでいきたいと思います。

記事の冒頭に本題とは直接関係のないことを書くのが結構好きだったりします。昔所属していた大学のサークルで、業務連絡の時にもグループ単位で流すメールの時には枕をつけるというのがありました。別にそこから好みが形成されたわけではないのですが、何にせよ枕をつけるのは楽しいですね。

今回は結構本題に関係あるもので、レヴィナスの写真を持ってきました。おそらく彼が高齢に達した時期のもので、何かのインタヴューの折に撮られたものではないかと推察しています。レヴィナスの顔の映った写真はどれも好きなんですが、この写真は特にお気に入りです。なんとなく僕は彼の本が「過酷な世の中と向き合い、泣きながら書かれた哲学」という感じがするのですが、この通り彼は柔和で眩しい笑顔を向けています。ポーズはあくまで偶然こうなったものだと思いますが、こちらに手を差し伸べているような様子がとても素敵です。

そもそも哲学者の顔や姿形に関して好き嫌いを述べるのは危険だと思いますが、この写真はどうしても彼の思想や境遇を喚起しないわけにはいかないものだと思います。ユダヤ系の家庭に生まれ、ドイツの現象学に深く魅せられフッサールとハイデガーの下に学ぶも、フランス軍の通訳兵として第二次世界大戦に参加し、捕虜としてドイツ軍に囚われます。捕虜となったことで、彼自身はユダヤ系であったにもかかわらず強制収容所に送られることはありませんでしたが、彼の親族の多くは強制収容所で悲惨な死を遂げています。戦後はユダヤコミュニティの復興に尽力し、聖典のタルムードを解釈する講義記録も残されています。

ユダヤ人として20世紀のほとんどを生き抜いた彼は、同時代にユダヤ人に振るわれた理不尽な暴力を目の当たりにし、そこから多くのことを考えるように強いられたと思います。そのような経験のある彼がこんなにも優しい笑みを浮かべることができる。他の哲学者との真摯な対話のもとに自己の思想を形成し続けることができる。卒論の頃から主にニーチェの文章を読んできた僕としては、このような対話の姿勢は感動するものでした。

かといって、彼を贔屓するわけにはいきませんね。彼の文章をなるべく正確に読みつつも批判的に吟味していけたらと思います。

さて、前回は人間の自由を保証しようとする思想としてユダヤ・キリスト教、近代自由主義を取り上げ、自由を主張するために悔恨や超越的な霊魂、理性が措定されることを確認しました。これらの思想は総じて人間が経験的な世界において環境に条件づけられているものの、精神的な領域では過去の事実をすら変更できてしまうと述べているのでした。

今回はこの自由の思想史の転機となるマルクス主義が取り上げられる箇所を確認していきます。範囲は第二節と第三節の前半です。


第二節:マルクス主義

レヴィナスが描く自由の思想史において一つの転換点になるのはマルクス主義です。

マルクス主義にとっては、人間の精神はもはや純粋な自由、一切の固着を超えて飛翔する霊魂としては現れなかった。人間の精神は目的の国に属する純粋理性ではもはやない。人間の精神は物質的欲求に苛まれている。理性の魔法の杖にもはや従うことなき物質や社会に左右されるのだから、人間の具体的で従属的な実存のほうが、無力な理性よりも多くの重要性と重量を有していることになる。

pp.97f

前回の範囲では歴史的自由を保証する宗教的な霊魂が形を変えて超越的な理性となって近代の自由主義を支えていたと述べられていました。しかし、そのような思想的な連続性がマルクス主義によって断ち切られます。引用箇所に則して言うとこうです。まず、人間にとって外部の経験的世界にある物質や社会は理性からは独立していると言えます。つまり、これらは歴史を持っている、過去に起こったことによって否応なしに規定されてしまっていてそれを自由に変更することができないのです。そして、そのような外的な経験的なものを求める「物質的欲求」によって精神的領域は影響を受けます。

ここまでで、精神/理性は物質的欲求によって影響を受け、欲求は歴史を持った外的世界に左右されることから、理性が絶対的な自由など持っていないということが主張されます。

精神は、いかなる信もそれだけでは揺るがすことのできない山塊にぶちあたったのである。絶対的自由、奇跡を行う自由が初めて、精神の組成から追放されたのである。かくして、マルクス主義はたんにキリスト教と対立するだけではなく、観念論的自由主義の全体とも対立することになる。この自由主義にとっては、「存在が意識を決定するのではなく」、意識ないし理性が存在を決定するのである。

p.98

マルクス主義においては経済的現象が下部構造をなし、上部構造である社会的領域や個人的なあり方を規定することになります。ここでは個人が自己の生存を規定する程度は大きく制限されることになります(存在が意識を決定する)ので、自由主義とは対立する思想といえましょう。

これまでの歴史的自由の系譜とは反対の立場に立つマルクス主義。レヴィナスはここで人間の自由のあり方が決定的に変化したと言いたいわけではないでしょう。マルクス主義が人口に膾炙することによって、自由主義的な思想との対立が展開されたことを言いたいのだと思われます。そしてその対立の中で人間観としてマルクス主義が「力を持った」ということでしょう。ここではどちらの思想が「正しいのか」という問いは扱われておりません。いわば思想の「動員力」が問題になっています。

第三節

第三節前半:マルクス主義は決定的に自由主義と対立するものではない

さて、この論文の目的はヒトラー主義哲学が影響力を持った背景を解き明かすことにあります。そして、そのためにレヴィナスは人間の自由をどう捉えるのかという軸を設定して思想史を描いてきました。序論部分でヒトラー主義哲学は「一個の文明の諸原理を問いただすもの」とされていましたが、この記述から、ヒトラー主義哲学はこれまで自由主義的な伝統のもとに築かれてきたヨーロッパの文明に対立するものと考えることができます。したがって、ヒトラー主義哲学をこのレヴィナスの思想史の中に位置付けることは、反自由主義的な思想としてこれを描くことが必要になると予想できます。

レヴィナスはいわば、徹底的な反自由主義(の出現地点)を探しているのです。その中で浮上したのがマルクス主義でした。しかし、レヴィナスは結局、マルクス主義も反自由主義を徹底できていないと述べます。

何よりも問題なのは、マルクス主義の本義が、ある一定の状況との不可避な連関の中で精神を捉えることにあるとしても、この繋縛が何ら根底的なものではないという点である。存在によって規定された個人の意識は、社会の呪縛を振りほどく能力を − 少なくとも原則的には − 維持できないほど徹底的に無力ではない。それゆえ、社会の呪縛は個人の意識にとって疎遠なものとして現れる。みずからの社会状況を自覚すること、それはマルクス自身にとっては、この状況に孕まれた宿命論から自己を解放することであった。

p.99

マルクス主義は確かに特定の外的な状態(経済的な不況とか)が我々の精神を規定することを説く思想でした。しかし、結局のところ、この外からの規定(=繋縛)が決定的なものではなく、「社会の呪縛を振りはらう能力」を多少は持っているとこの思想はいうのです。そのため、経済的な条件に規定され切らない本質が人間にはあり、それゆえに「社会の呪縛は個人の意識にとって疎遠なものとして現れる」のです。特撮とかで敵に洗脳された仲間が「違う!こんなのは自分じゃない!」ってなるのがあるじゃないですか。そんな感じですね。敵の洗脳=社会の呪縛が本当の自分=精神を完全に支配していないからこそそのように自覚できるというわけです。

このようにしてマルクス主義とて徹底的な反自由主義の思想ではないのです。

ヨーロッパ的な人間観と真に対立した考え方が可能となるのは、人間を縛りつけている状況が人間に付加されるものではなく、人間の存在の基底そのものをなしている場合に限られる。逆説的な要請ではあるが、自分の身体についての経験がそれを充しているように思われる。

p.99

さて、ここで新たな論点が提起されます。状況が人間の存在の基底になってしまうような反自由主義の極致の思想は「自分の身体についての経験」によって可能になるというのです。ここで、引用文中のこの言葉を読み替えて「自分の身体についてのある種の経験」と理解する必要がありそうです。つまり、ある仕方で身体を経験する場合には自由主義的な思想がもたらされ、別の経験においては反自由主義的な思想が得られるということです。では、身体についての「どのような」経験が反自由主義をもたらすのでしょうか。見ていきましょう。

身体経験と自由主義

おもむろに節を新しくしましたが、言っていることはこれまでの話とあまり変わりません。ユダヤ・キリスト教を含む自由主義の思想においては身体は自我にとっては疎遠なものとして映っていたという話です。新たな点としては、この身体経験に則した思想史においてはユダヤ教発生以前の古代ギリシアに遡るのです。

ソクラテスを待ち受けるまさに墓場のように、身体はソクラテスを閉じ込める。身体、それは障碍である。身体は精神の自由な跳躍を打ち砕く。身体は精神を地上の諸条件へと引きずりおろす。しかし、一種の障碍物なのだから、身体は乗り越えられるべきものである。

p.100

ひとまず、「精神の自由な跳躍」が想定され、その跳躍にとって「障碍」となるものとして身体が捉えられていたことを読み取れます。身体は非常に厄介な障碍ではあるけれども、障碍である以上乗り越えられるべきものでした。

われわれに対する身体の永遠の疎隔の感情が、キリスト教と同様に近代の自由主義をも培ってきた。

p.100

身体は乗り越え困難な障碍であるものの、乗り越えるべき疎隔なものであるという感覚が後の自由主義を「培ってきた」と言われています。先に自由主義と反自由主義を可能にする身体経験をつかむことを目標にして読んでいましたが、ここにその答えがあります。身体を障碍、疎隔なものと感じる感覚が自由主義を可能にしているのです。次にレヴィナスは、このような感覚そのものが正しいものなのかどうかという点に疑問を呈します。

身体は疎隔なものなのか?

ここからがこの論文の中心部であり、同時に読解に悩むところだと思います。というのも、レヴィナスが「身体とはこうである」という主張を展開しているのですが、その主張の仕方が論理的な理説というより、経験に訴えて説得するものになっているからです。レヴィナスが挙げている経験例から彼の主張が導き出せるのか判断するのが難しいのです。ともかく、見ていきましょう。

まずレヴィナスは身体の「近さ」に注目します。強力な障碍として身体は疎隔でありながら近いものと認識されていたことは二つ前の引用から推察することができます。しかしレヴィナスは、この身体はたんに近いだけのものではないと述べます。

身体はたんに、世界のほかの事物よりもわれわれに近く、われわれにとってより親しいというだけのものではない。身体はたんにわれわれの心理的営みやわれわれの気分やわれわれの活動を牛耳っているだけではない。こうした通俗的な了解事項を超えたところに、一体感があるのだ。〈自我〉が成熟して、身体と自分との区別を主張するようになるはるか以前に、われわれは、自分の身体というこの比類ない熱さのなかで自分を確証しているのではなかろうか。

pp.100f

先に言われた「障碍」とは精神の自由な運動にとっての障碍でした。したがって人体に由来するような欲求とか痛みのようなものが想定されていたのでしょう。このような捉え方では、何度も確認したことですが、精神を自我の本質と考え、身体は精神とは別のものであり、副次的なものと考えています。これに対してレヴィナスは身体と精神がそもそも分離されていない一体感を提示しています。われわれは最初から精神と身体を別のものとして経験しており、精神を本質的、身体を副次的と経験しているのではなく、両者が一体であるものとしての自分という経験を持っていて、そこから後に身体と精神の違いがでてくるというのです。

レヴィナスはこのような一体感を覚える事例としてスポーツや、「楽な姿勢を求めて寝返りを打」つことを挙げています。このような経験においてわれわれは苦痛を意識して、それに対処すべく身体に命令を与えるという図式ではなく、「己が存在の分割不能な単一性」を感じているというのです。

ここは正直解釈に悩みます。というのも、上記のレヴィナスの例は「反射」のような思考を伴わない、ないし思考が遅れてくるような行動決定の事例をもって心身の単一性を主張しているように見え、恣意性が感じられるからです。つまり、反射の事例に着目すれば確かに単一性が主張できそうですが、ほかの事例、例えばある種の苦行なんかを考えれば強い心身二元論を主張できそうなのです。「心頭滅却」して火の中を歩けば暑さを感じない修行僧がいたとして、このような事例は精神によって身体を統御する力の強さを傍証するものとなるでしょう。反論が考えられそうですが、すぐにはうまく表現できないので後ほどということにさせてください。

実際にレヴィナスは、ここで行なっているようなスポーツや病身の分析が自由主義的な心身二元論をサポートするかもしれないことを認めています。しかし、彼の主張はあくまでも、身体こそが自我に否応なしに癒着しているものであり、自由な精神などあり得ないとわれわれは了解している、ということです。

身体は、物質の容赦ない世界とわれわれを関係づける不幸な、もしくは幸運な偶発事ではない。 − そうではなく、〈自我〉への身体の癒着はそれ自体で価値を有するのだ。これは、そこから逃れることのできない癒着であって、いかなる比喩をもってしても、それを外敵対象の現前と同一視することなどできはしない。この絆の悲劇的で如何ともしがたい味わいは、何をもってしても変えることができない。

pp.101f

引用文の前で私は「自由な精神などあり得ないとわれわれは了解している」というふうにレヴィナスの主張をまとめました。ここは回りくどい言い方になっています。ここのところは「自由な精神などない」とまとめることはできないのです。というのも、ここでは身体と精神に関して事実どうなっているのかというよりも、どのような関係を想定することが受け入れられているのかが問題になっているからです。次の引用でそのことが強調されます。

西洋の精神は一度たりともこのような身体感情で満足しようとはしなかったのだが、新たな人間観の根底には、こうした身体感情に認められた重要性が存している。

p.102

問題になっているのは「人間観」であり、その人間観を形成するものとしてここで重視されているのが「身体感情」なのです。繰り返しになりますが、人間に関して真なることを探るのが目標なのではなく、どのように考えることが本当らしきこととして聞こえるのかが問題なのです。そして、本当らしきこととして聞こえるのがなぜ重要なのかと申しますと、それは、本当らしく聞こえる洞察に根付いた主張の方が人を動かす力を持っているからです。最近の例を出せば、事実に基づいて法的な説明をしてAさんが犯罪者だと述べるよりも、AIを使ってその人間が逮捕される瞬間の画像を生成して見せた方が聞き手にAさんが犯罪者だと思わせることができるということでしょうか。

そしてレヴィナスはこの人間観を詳しく見ていきます。

生物学的なものならびに、それにともなう宿命的な要素全てが、精神の営みにとっての一対象以上のものと化し、その核心と化す。血の神秘的な声、遺伝と過去の呼び声 − 身体はその謎めいた運搬者であるのだが − は、絶対的に自由であるような〈自我〉によって必ずや解決されるような問題としての本性を失ってしまった。

p.102

身体こそが自我を拘束するものであり、精神によってそこに介入することはできない。この見解からすると「生物学的なもの」こそが自我や自身の行為にとって決定的なものになります。つまり、どのような民族や家に生まれたのか、どのような遺伝子を持っているのかが自分や他人の価値の決定的な基準となるのです。この場合にその人が意識的にどのような自己形成を意図しても、どのような行為を行なっても、何の意味も持たないということになります。これがレヴィナスによる同時代の人間観の分析になります。この分析に基づいてヒトラー主義哲学の解明に入るのですが、今回はここまでにしたいと思います。最後に、まとめになる部分を引用しておきます。

人間の本質はもはや自由のうちにはなく、一種の繋縛性のうちにある。真に自己自身であること、それは、〈自我〉の自由とはつねに無縁な数々の偶発事の上空を改めて飛翔することではなく、逆に、身体に固有の繋縛、回避不可能なこの根源的繋縛を自覚することである。いや、何よりもそれはこの繋縛を受け容れることなのだ。

p.103

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