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Merry Christmas Mr. Lawrence,「戦場のメリークリスマス」感想


この曲と映画との出会い

今年の3月末に坂本龍一氏が亡くなる少し前に、Spotifyの映画音楽プレイリストで偶然Merry Christmas Mr. Lawrenceを聴いて、非常に感動して印象に残っていた。直後に氏が亡くなって、その報道が続いた。現在懸案になっている明治神宮の再開発問題に関して氏が発表を希望した文章が東京新聞に載ったりしていた(この問題自体、存在は知っているけど何故か遠巻きに見ているだけなので、そのうち触れていきたい)。報道が収まってきた先日、坂本氏も役者として出演している映画「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas Mr. Lawrence)」を観た。それ以降日常的に坂本氏の音楽を聴くようになり、映画主題歌であるMerry Christmas Mr. Lawrenceについてもちょっと考えたことがあるので書いてみる。

なお、僕自身は映画や音楽を評するときの言葉をもっていないので、この記事は結構稚拙な言葉で書くものになってしまうと思う。また、僕はこの曲に現在ハマっているので、ベタ褒めになると思う。

この曲には決して美化しきれないものへのノスタルジーや、失われていくものを惜しむ気持ち、そしてそれらの感情にも関わらず前へと動いていってしまう世界が描かれていると思う。以下、この感想を詳述する形で本文を進めていくけど、この曲に歌詞をつけたForbidden Colorsを聴くと、この解釈がいくつかの修正を必要としていることがわかる。とはいえ、Forbidden Colorsをしっかり聴く前の感想なのでいいでしょってことで正しくなさそうな解釈も書きます。

映画「戦場のメリークリスマス」のあらすじ

まず、この曲を聴くときに思い浮かべる主要な登場人物はローレンス(トム・コンティ)とハラ軍曹(ビートたけし)の二人だ。この映画は第二次世界大戦中1942年のジャワ島、日本軍の俘虜収容所が舞台になっている。収容されている俘虜の一人ローレンスは英軍中佐であり、俘虜の中でも一定の扱いを受けていた。日本軍のハラ軍曹とも親しく話し、時に反論もする場面がいくつかある。ある日、収容所の責任者であるヨノイ大尉(坂本龍一)が、英軍陸軍少佐のセリアズの身柄を任され、彼を収容所に連れてくる。数日経ったある晩にローレンスはセリアズを連れて収容所を脱走しようとして捉えられる。二人はそれまでの施設とは別の房に入れられ、死を覚悟するが、実際にはハラ軍曹の前に呼ばれる。ハラはクリスマスということで酒を飲んで酔っており、その勢いで(?)二人を放免してしまう。この時にハラは「ファーザー・クリスマス」(サンタクロース)を名乗り、陽気に笑いながら「メリークリスマス、ローレンス」と呼びかける。

一気に場面を飛ばすが、最終盤、終戦後囚われ、処刑を翌日に控えたハラのもとにローレンスが訪れる。二人は房の中でしばし言葉をかわす。話題は収容所での日々。「あのクリスマスの晩を覚えていますか」とハラ。ローレンスはもちろん覚えている。あの晩ハラが酔って二人を放免したこと、サンタクロースを名乗ってはしゃいでいたこと。思い出話も終わり、ローレンスの去り際にハラは収容所時代のように乱暴な口調で「ローレンス!」と呼びかけ、満面の笑みで「メリークリスマス、Mr.ローレンス」と。

曲の解釈

ここで映画は終わっている。ハラに対してローレンスが何と返したのか、最後の対面の後でローレンスが何を考えたのかは描かれていない。僕は、この後のローレンスの胸中を描写しているのがこの曲だと思っている。つまり、「決して美化しきれないものへのノスタルジーや、失われていくものを惜しむ気持ち、そしてそれらの感情にも関わらず前へと動いていってしまう世界」である。ノスタルジーと惜しむ気持ちは、転調前の曲の前半にあたる部分、残りが後半だ。

決して美化しきれないものへのノスタルジー

連合国軍兵士にとって、収容所での生活は決して美化されうる思い出ではない。ヨノイは少なくとも物語の序盤では思慮深い人物であり、俘虜に配慮した姿勢も見せるが、部下の切腹に不慮が立ち会うことや三日三晩の飲まず食わずの「行」を強制したり、病気の俘虜を無理に表に出して死なせたりもする。ヨノイが解任されたのちはその原因となったセリアズは生き埋めにされ、命を落とす。しかし、その中でもローレンスはハラと交流し、友人のような関係になった。兵士と俘虜、敵と味方という壁を超えて心の交流ができてしまった。戦争や収容の記憶は決して美化し得ないものだろうが、そこで得られた心の交流は懐かしむべき思い出となってしまっているのだろう。

失われていくものを惜しむ気持ち

これはもちろん、死にゆくハラへのローレンスの感情である。親しく言葉を交わす友人となったハラが処刑されてしまう。最後のハラの笑みは「メリークリスマス、ローレンス」が酒の勢いだけではなく、彼の本心から出たものだということを示しているのだろう。乱暴な軍属だった彼が敵国の人間に対して個人として向き合うことができる。ローレンスにとってハラはかけがえのない友人の一人になっていただろう。

この二つの感情が曲前半の静かな旋律の繰り返しになっているのだと思う。ここは非常に美しいメロディーで、恨むべき世界へ執着する気持ちを喚起されるような感じがする。

前へと動いていってしまう世界

転調後の部分だ。同じ旋律が繰り返されるが、数段力強くなっている。ここは、前に踏み出す個人のポジティブな感情などではなく、尽きることなく流れ続ける大河を喚起させる。映画の最後の場面、ローレンスとハラの会話の時にすでにヨノイは処刑され、ハラも処刑されることが決まっていて、本人はそれを受け入れている。大戦が始まって終わり、知る人が死んでいく。また、我々の生きる現代の日本でもはっきりとそれとわかる戦争はないものの、古き良きものが失われていき、我々はそれを惜しんだし悲しんだりするものの、世界は動いていってしまう。そこではまた悲劇が繰り返されながらも、個々人にとって忘れえぬ経験が重ねられ、いつかそれを懐かしむ時が来る。

セリアズの視点

ここまではローレンスの視点で語ってきたが、ここで書いたことはセリアズにもあてはまる。彼は肝っ玉の座った人物として描かれているが、本国に悔いを残している。弟だ。彼は学生時代、彼の弟は歌が上手いが背中に瘤があり、行く先々でいじめられていた。セリアズは少年の頃、そんな弟を守ろうと体を張ったこともあったが、自身の通う高校に弟が入学してきた時には、寮長の立場を使って弟を新入生の歓迎の会(日本の男子校的な雰囲気の残る学校で今もやっているシゴキのようなもの)に参加させないこともできたのだが、そうはしなかった。弟は多くの上級生に囲まれて服を脱がされ、瘤を顕にさせられたりそこで歌うことを強要されたがセリアズは見て見ぬふりを貫いた。このことがショックで、弟はそれ以降歌わなくなった。セリアズは収容所で死を目前にした時にこのことを思い出し、夢の中で弟に対面して許しを乞うていた。自らの行動で弟を傷つけ、その美しい歌声を封印させてしまったことへの後悔を繰り返すセリアズの心境にもこの曲はマッチしていると感じる。

同性愛というテーマ?

最後に、Forbidden Colorsの歌詞を参考にしながら、映画に描かれた同性愛について触れていこうと思う。この曲の歌詞では”My love wears forbidden colors”とある。ここでのmy loveとは、先に書いたローレンスからハラへの感情とも読めるし、より直接的にはヨノイからセリアズへの感情を想起させる。ハラは俘虜から英国軍の装備や兵器を扱える人数を聞き出そうとするが、俘虜長は頑として口を割らない。終盤ではヨノイはついに怒り心頭に発し、病気の俘虜をも外に連れ出して死なせてしまう。この時俘虜長を斬ろうとしたヨノイにセリアズが歩み寄り、ヨノイにキスをする。ヨノイはショックで再び刀を構えることもできずに倒れてしまう。セリアズの行為に対してショックを受けたところを見ると、保守的な堅物に見えたヨノイの胸中にはセリアズへの特別な感情が芽生えていたのだと思える。正直言うと僕自身は他のシーンからそのようなヨノイの心を読み取ることができずにモヤモヤしているのだけど。
ともかく、このシーンは一つのクライマックスになっており、ここにつながるように同性愛というテーマが序盤から登場する。この映画の最初から俘虜のオランダ人男性を性的に暴行した朝鮮人軍属の男が登場するし、ハラとローレンスの会話の中でも軍隊の中で男性同性愛が増えるか否かという話題が出ている。実際に戦争によってコミュニティが変わり、セクシャリティが変化することや、反動的な価値観の広まりによって「アブノーマル」とされたセクシャリティが排除の対象になるということがあるだろう。Forbidden Colorsとはそのような「禁じられた愛」のことだろう。
個人的に想起するものはいくつかある。例えば同じ第二次大戦期のイギリスを舞台にした「イミテーション・ゲーム」ではドイツ軍の暗号を突破した英雄であるチューリングが晩年に同性愛者であることから強制的にホルモン投与などを受け、身体に害が及んでいる様子が描かれていた。

また、三島由紀夫は昭和元年(1925年)から45年(1970年)、つまり第二次世界大戦と戦後の時代を生きたが、『仮面の告白』では同性愛を自覚する自身が描かれ、『憂国』では異性愛、家族制度、貞潔、忠義、天皇が一直線に重なって描かれる。『憂国』に描かれた価値観を「仮面」として被った三島が本音を「告白」しているのが『仮面の告白』と見れば話は簡単なんだけど、それでは単純に過ぎる気もする。

ともかく、戦争と同性愛というのはこの映画と曲を読む時の公式的な線の一つとして提示することができるけど、それ自体広すぎてここではこんな感じのオープンエンドにするしかなさそうだ。いつものように尻切れ蜻蛉感があるけど、ここで。


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