§34-1ハイデガー『カントと形而上学の問題』ゼミノート(24.4.23分)
わけがわかりませんが、わからないなりに頑張ります。
§ 34. Die Zeit als reine Selbstaffektion und der Zeitcharakter des Selbst
純粋な自己触発としての時間と自己の時間性格
188c:時間が対象の表象の概念を触発するとは?
ここではもっぱら問いを立てるだけです。
この問題は以前にも登場しています。62 ページ。でもそんなに関係ないみたいです。
カントは「触発する」のは時間と空間の両者だと書いていますが、ハイデガーは形式として時間が優位に立っているとしているので、「空間」をしれっと削除しています。
189a:時間それ自身が触発するという問題の深化
「諸対象の表象の概念」の意味をとるところからスタートします。ここでは「概念」をどう理解するから問題になっていますね。概念を「『普遍的なもの』、諸対象に関するあらゆる表象作用そのものを特徴づける」とするのは、概念論を解釈する箇所(11 、12節)と一致していると思います。
次に問題なのが、「〜を対立化させること〔Gegenstehenlassen von…〕」ですね。まずドイツ語として、「対象」はder Gegenstandです。これを動詞化して「〜させる」という意味のlassen(英語のlet)をつけることでこの語ができています。何かが対象としてわれわれに現れるには、それがわれわれとは異なり、われわれに対置されるものとして指定される必要があると、ハイデガーは考えているようです。(要補足)
詳しくは要補足なんですが、これまでの行論では感官が触発され、何かがわれわれに対立化されることで対象として現れることの舞台(「地平」)は時間と空間によって形成されると述べられてきました。ここはカントの感性論と論理学の読み替えだと思います。しかし、これだけでは、この節で問題になっているテーゼに届きません。
というのも、テーゼでは、時間と空間の構成する地平ではなく、時間(そのもの)が触発の役目を担うとされているからです。
そしてここではテーゼの問題点が示されます。触発するのは「すでに眼前にある存在者」であるのだけど、時間はそのような存在者でもないし、そもそもわれわれの「外部」にあるものでもないから、眼前の存在者になり得ない。そうなるとそもそも時間が触発することなどできないのではないか?という問題です。
189b:継起的なあり方が時間を純粋自己触発にするのである
カントにおいて時間は「純粋直観」と言われます。われわれは外部にあるものの表象を直観として得ます(その意味で、〔経験的〕直観とは「知覚内容」と言い換えてもいいでしょう)。そのときに、外部から表象を受け取るために、常に作動しているべき直観の形式というものが必要であり、それは時間と空間であるカントは言います。どのような経験的直観もこの時間と空間の中に位置付けられてわれわれにもたらされるのです。
さて、上記の引用文でハイデガーは、純粋直観としての時間のあり方を述べています。ややこしすぎるので前後に分けて考えましょう。
前半「時間は、時間自身が自身に関して互いに継起するという光景Anblikを前もって形成し」ですが、これは結構通俗的な理解そのままの気がします。というのも、今この瞬間にも未来が現在になり、現在は過去に流れ去っていきますが、その全てが時間です。「光景Anblik」の内容は一旦置くとして、時間は、時間自身が流れ去り継起することを経験に先立って自らの規定として持っているということでしょう。
後半「この光景それ自身を形成的受容として自らに関係づけることによってのみ、純粋直観なのだ」について。これは差し当たりよくわからない一捻りです。多分ですが、上記の継起的なあり方というものをその都度、時間が時間自身に関係づけることで、時間は純粋直観であると言いたいのでしょうか。その場合形成的受容とは、自ら純粋直観として継起の光景を作り出し、それを自らで受け取るということです。この自己還帰的な関係が触発の所以なのでしょう。
時間は直観の形式なので、現在において直観されるものは時間の中に捉えられ、時間に関係することになります。そして、その直感が起こる時間(時点)そのものも共に時間(の流れ)に関係するのですが、このときに直観内容はなくとも時点としての時間は継起としての時間に関係することができます。これは純粋直観としての特徴の確認のように思います。
⑦における、純粋に自分自身に関係する、立ち向かうということを受けて、時間が純粋自己触発であると言われます。ここはもう、その通りに受け取っておきます。
そして、この純粋自己触発としての時間は、自己触発の形式を作るというようなことが言われています。時間は継起的なあり方で自己に関係するということで自己触発だったのでした。このあり方が「自らを出て…に向かう」という運動の範型となり、この「自らを出て…に向かう」は自身を形作る運動を反省的に見遣り、「…の中へ入り込む」というあり方も持つのです。
正直書いていて自分でもよくわかりません。どっかでクリアになるといいのだけど。
189c:自己触発は有限的な主観の本質を形作る
この文で大事なのは、「自ら自身に立ち向かうというような何かあるものの本質」を時間の純粋触発というありようが形成するというところでしょう。ただ、「眼前の自己に行き当たるような作用をする触発ではない」は何を否定しているのかがいまいちピンときません。自己に帰っていくという構造が自己触発にあるのだけど、その際に帰っていくところの自己が目の前に経験的対象にように存在するのではないということを言いたいのでしょうか。
自己触発という特徴が有限的主観の本質を作っているというのだけど、そもそも有限的な主観が一つの自己として立ち向かわれうる、というのはどこで主張されたのか。思い当たる限りでは、感性論を解釈して直観の受容性の話をしているところでそんなことが言われていたかもと思います。
189d:自己触発によって作られる本性が受容性の根拠である
自己触発によって本性を形作られることによってのみ、有限的主観は例えば直観のように外部から何かを受け取るということができるようになるそうです。
189e:
対象を対象たらしめる、「対立化させること」を触発するということは、「反対することをそれに対立させて持ち出す」ことだそうです。このとき「それにihm」がまず何なのかがわからないままに提示されます。そして、後から、この「それ」が「純粋な『〜を対立化させること』」すなわち、純粋統覚、私であると述べられます。ここでは対立化させることに対立させるのと述べていますが、二重の対立化のようなことを言いたいのではないと思います。私は対立化させる作用を持っており、その私に一般的に何かを対立させることが純粋触発なのですが、ここでは対立の発生は「一般に」行われるので、何ら対立物を措定することなく対立させる、対立の構造を発生させると考えるのが良さそうです。
純粋自己触発としての時間が「根源的に」有限的な自己性を形成するとあります。この点に関しては次回の範囲で詳細が述べられています。
ここの統覚の議論の前提になっているのは、17節などの議論です。
問題。時間の自己触発の形式として語られたことと、主観の構造がパラレルに語られているのだけど、それは本当に同じものとして考えて良いのだろうか。
地平の形成的受容ということだろうか。
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