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三島由紀夫『天人五衰』観想

 最近Switchでバイオハザードの4,5,6セットを買って遊んでます。小学生の時に友達がバイオ4をやっていたのを見ていて、いっちょ自分でもやってみるかと思って買った次第ではありますが、みるのとやるのでは大違いで死にまくってます。

 今日から6(レオン編)を本格的に始めましたが、めっちゃいいですね。なんとなく世間の評価は高くないイメージのあるタイトルですが、今のところ結構楽しめています。前2作の操作感とはだいぶ違って戸惑いはしましたが、都市の中でのバイオハザードは自分としては初めてだし、全体としてプレイ画面とムービーがシームレスで映画に近づけたテイストが気に入っています。ちょうどレオン編のチャプター1が終わったところですが、レオン編全クリくらいの満足感があります。

 さて、今回は読書メーターに載せようと思った三島由紀夫『天人五衰』の感想を載せます。単に長くなったからnoteにしました。本当は引用とかしてもうちょっと丁寧に書くべきなのですが、ご了承ください。

透の正体

輪廻の線を辿るという形で集中していった物語のラインが、この間の最後で一気に発散してしまう。慶子と透の会話、本多と聡子の会話でそれが起こる。慶子の曰く、透は特段悲劇的でも喜劇的でもないただの青年の一人なのであり、清顕が恋情に、勲が使命に、ジン・ジャンが肉に、つまり各人がそれぞれに異なった運命に惹かれて破滅したのとは対照的に透は単に平凡な老人に見出されたに過ぎなかったのだ。この慶子の総括を鵜呑みにしていいのかは疑問であるが、転生の印とされていた三つの黒子を透は自己の特別性の象徴のようにみなしていたなど、運命に襲われているとは言い難い(ジン・ジャンの場合は慶子との情交のなかでその「肉」という運命に飲まれていることが系維持される場面で初めて黒子が見られるようになる)。透は自己の平凡性の自覚から服毒して自殺を試みる。この時に用いた毒物がメチルアルコールであるのは意味深い。透の自意識、認識を自己の本性とする自覚や、そこから来る他人への加害性が「自分のもの」として特記するべきものではないと自認したために、彼は特に視力を奪うメチルアルコールを選んだのではないかと思う。死にきれなかった時にも、視力は奪われるようにと。

本多の消失

また、本多の連続性も最後に危機にさらされていたのではないか。本多は物語の最後に訪れた月修寺で松枝清顕の恋人であった門跡聡子に再会する。本多はこの訪問に自らの人生の留め金のような期待を込めていた(自分が実に60年の時を経て月修寺を再訪することは永劫の昔より決まっていたのではないかと予感する)。しかし、聡子は清顕のことを全く知らないという。この発言によって本多は清顕とともに勲、ジン・ジャンもまた存在しなかったのではないかという想念に襲われる。そしてそのことは、三人のみならず本多自身の同一性、連続性にも疑問符を突きつけるものではないかと思われる。というのも、本多はこの三人との交流の中で自己形成をしてきた。つまり、清顕や勲のような情念とは反対の理性の世界に自らを置き、ジン・ジャンの肉体的な魅力に巻き込まれてきた。しかし、もしその三人が存在しないのだとしたら、本多という人間もまたなくなってしまう。あるいは、輪廻というものの性質からして、先の聡子の発言は、一旦現象界から阿頼耶識の次元に目を転じた時に必然的に結論されるものなのかもしれない。

「豊饒の海」=月の空虚な海

また、三島の現代批判的な視座が含まれているようにも思われる。私の断片的な記憶だが、三島は彼の死に先立つ数年間の中で日本の行末に大いなる危機感を抱いていた。日本の古典を直接味わって育つ世代は自分たちで最後になるだろうし、そのような文化的な基盤を失っていったときに、日本という国は実質的になくなってしまい、極東には一つの経済大国が残るのみであろう、と。同時代(1970年前後)の政治動乱(安保闘争、学生紛争)に対しても、「主張・イデオロギーのなさ」を嘆いていた。東大全共闘との対話で語った、「共産党はもっと暴力的であってほしいし、自民党はもっと反動的であってほしいのにどちらも曖昧なままである」という言葉がとても印象的だ。そして、このような三島の問題意識を見出した時に、三島(右翼)と全共闘(左翼)という対立軸は解体されて、共通の敵として「あやふやで猥褻な日本国」(全共闘・芥正彦談)が浮かび上がってくる。つまり、当時の動乱において確かに三島は右翼私兵集団を率いて天皇中心国家の建設を標榜したが、もっとも「敵」とされていたのは、主張のはっきりしない人間たち、信念を貫徹しない人間たちであったのだろう(宮台真司がよく引き合いに出す三島の言葉として「終戦の際に、一夜にして天皇主義者が米国万歳になった」というものがある)。そしてそのような三島の嫌悪する傾向が否応なしに広がっている。「豊饒の海」四部作で戦前にあたる『春の雪』『奔馬』では自らの信念をどう処するのかが特に勲を通じて描かれていた。清顕の恋情も宮家の縁談に割り込むという禁を犯すものであり、そこに三島が独自のエロスを見出していた。それに対して『暁の寺』の日本編と『天人五衰』では本多の堕落や無軌道な享楽的な人間が増えていく。心なしか風景の描写も経済的繁栄にうつつをぬかす日本という感じがある(日本会館のレストラン、本多の別荘、コカ・コーラの看板など)。ドナルド・キーンは、三島が「豊饒の海」は月面の水のない海のことを指していて、「豊穣」とは皮肉であると述べていたと言う。「豊か」になっていく日本を背景に輪廻の縁が解除されていくラストには、この証言を想起させられる。

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