降伏論
ガチですか?!?!
仕事をしないと鬱になる?!
私は今まで、「仕事したくないけどあらゆるデメリットを考慮した上で仕事を仕方なくし、そして仕事上になんらかのメリットを見出すことで仕事ができている」と、仕事をしたくないけど仕事を続けられる人たちに対し、考えていた。
彼らのメリットは、「鬱を回避できる」だったのか…(꒪𖦹ࡇ𖦹꒪)
私は、仕事をすると鬱になる(厳密に言えば、鬱が悪化する。原因は他のnoteに書いてある)。
それでも心身ボロボロになるまで退職せず、仕事を続けたのは、生活費のため。
そして、定職に就いているということが社会的にどんな意味があるか理解していたため。
そんな仕事をすることで生じるメリット・デメリットをはるかに超える、仕事をしたくない理由が私の中にある。
「やる意義が感じられないこと(仕事と呼ばれる仕事)を毎日繰り返すと気が狂いそう」
という感覚。
やりたい仕事をやればいい、のではなく、そもそも仕事という概念にまじわれない。
水と油のように。
本来、お金をもらってやるようなこと(だいたい相場は1時間4~5千円)を、私は基本的にお金をもらわずに行い(相手が対価としてお金を渡したい時だけ有難くもらっていた)、そのおかげで6年ほど同じことを楽しく有意義に繰り返せた。
1ヶ月10件くらい依頼が来て引き受けていた(正社員としてフルで働きながら、それとはまた別に)。
1件で短くて2時間、長くて半日くらいはやっていたから、お金をもらっていたらとんでもない金額になる。
※仕事として確立している人もいるような、人に堂々と話せる内容のものです。一学年にひとりふたりはいると思う。
でも、それを仕事にしてしまうと、不自由な行為に堕ちてしまい、私が潰れ、続かない。
私は自由でないと、同じことを繰り返す中で、楽しさや有意義を見つけられない。
ここまで読んで、その幼い思考を矯正すべき、長い時間をかければ改善できる、もったいないと思った人もいるかもしれない。
それが、仕事をしたくないけど仕事をしないと鬱になってしまうから仕方なく仕事をしている人の悲しさなのかもしれない。
私は、職歴に長い空白期間が生じることを恐れていた。
そして、毎日着々と老いることで、仕事における選択肢が狭まってゆくことも理解しているゆえに、恐れていた。
過去形なのは、自分を過大評価するのやめたから。
そして、自分の中にある事実を「参りました」と認め、ほかの自分になろうと無理を図ることを諦めたから。
よく、他人軸で生きるのではなく、自分軸で生きよう!という文言を見かける。
それが良いとも悪いとも私は思わないのだが、趣味関係の知り合いに怪しい副業の勧誘をしてきた女性がいて、その人は無理に自分軸になろうとしてぐちゃぐちゃになっているように見えた。
タイプを無理に変えるのではなく、他人軸という性質をなるべく困らないものに落ち着かせた方が効率がいいし、健康的なんじゃないかと私は彼女を見て思った。
そして、何も言わず彼女の前から私は消えた(そもそも、人を金づるとして利用し搾取しないで、稼ぎたいなら正当に稼いでほしい)。
人には必ず欠点がある。
この人のこんなとこが嫌い、あの人のこんなとこが嫌い、とやり続けていたら、誰とも仲良くなれない。
(嫌なところもあるけど許せる人と出会えたら友達や恋人になれる節があると考えているので、そういう人はまだ出会えていないか、全てを拒絶しないと自分を保てない辛さがあるのかもしれない)
そして、自分にも必ず欠点がある。
それは変えられるものなのか。
そんな簡単な欠点なら、既に変えられていないか?
いい所があるから悪い所がある。
悪い所があるからいい所がある。
悪い所がない人はいい所もない。
悪い所がない人間っているんだろうか。
自分の欠点を隠すのが上手い人はいるかもしれない。
そこにはずるさと他者への気遣いとが紙一重に存在し、そこにすらいい所と悪い所がある。キリがない。
私は自分と仲良くする時も、許す過程が必要だと思う。
だから、自分を過大評価することをやめて、自分の中にある事実に降参した。
自分から逃げることをやめた。
前向きな過程なのだ。
仕事を続けられる人が社会的に強い立場にあることはわかる。
働く人が常にたくさんいないと成り立たない社会の仕組みになっている。
いつ、誰が理不尽な出来事で中途障がいを負ったり、いつ、誰が自分の中にある事実に降伏させられようと(それは、ほとんどの人が遅かれ早かれ経験すると思う)、大丈夫なように。
そういう大きな保険の仕組み(いわゆる公的扶助)が社会に存在しているおかげで、多くの人は「自分は働ける。働けないやつは格下」と思えているというか、思わされているというか(何か買うだけで税金払って経済回してるから、一度も長く働けないことを自責している人は買える範囲で買えばいいかもしれない)。
そうでもないと社会がまわらないし。
私は比較的若いうちに降伏できて幸せかもしれない。
仕事を頑張れてしまい、結婚できてしまい、子どもを作れてしまい、自分はおかしくないとどこかで信じたいまま還暦になって、降伏しなくてはいけない状態になることと、子どものうちから事実に向き合わされ、若いうちに降伏しなくてはならない状態になるのとでは、負う責任、周りへかける迷惑度合い、降伏を受容する難易度、何もかも違う。
年齢を重ねれば重ねるほど、社会は、人は、個人に厳しくなると感じている。
私が知っている、若者(30代まで)支援に取り組む社会福祉士は、「大人なんてどうでもいい。自分でどうにかしなよ」と言う。
(それは、彼女自身が若い頃、助けてほしくても助けてもらえず、なんとかひとりで乗り越えた経験、当時の時代背景、当時の社会が関係していると私は思う)
実際、お酒を買っても全く年齢確認されない見た目になってきて、どんどん個人として見られつつあることを実感する(子どもと捉えられることでまともに取り合われていなかったことや守られていたことが減ってゆく)。
大器晩成という言葉がある。
誰から見ても私が老いた時、「あー、人生って辛いこともあるけどいいもんだ。生きててよかった!」と思いたい。
そして、偉そうな話だけれど、もし自分が熟して整うこと(病気が寛解するとか)ができたら、障がい者福祉や社会的養護の支援にまた関われたらいいなと思う。
私はなんにもできないから、お金があれば寄付したり、なくてもボランティアだったり(掃除とか買い出しとかいろいろある)が自分のためにできたらいいなぁ。
冒頭のツイートを見て、世の中には働かないと鬱になる人、働くと鬱になる人、その2パターンが少なくともあること、そしてそれは優劣ではなく、ちがいであること、現代社会においては前者が立場として強いことを学べました。
これからも移ろいゆく時代と社会を楽しみにしています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?