「真面目に頑張ってる人でも報われない」がしんどい話―公正世界仮説

大学時代に心理学の授業を取っていた時に「公正世界仮説」という言葉に出会った。
これは、「世の中というのは、頑張っている人は報われるし、そうでない人は罰せられるようにできている」という考え方だ。
もっというと、頑張っていない人が見合わない対価を得るのはおかしい、という考え方になる。
出典↓


ちょうどこの授業を取っていたのがコロナのタイミングだったので、
「なるほど、自粛警察は『自分は出かけたいのに頑張って我慢している。でもあいつらは外出していて許せない!制裁!』ってなったから、荒れたんだ」と納得した。
あとは、昨日の記事でわたしが「自分は律儀にLINE返しているのに、あの子たちは自分の理由で返してこないのはモヤモヤしちゃう」と思ったのも、本質的には公正世界仮説が絡んでいるような、いないような。
それは置いといて。

最近、公正世界仮説に囚われてる友達を見るとかわいそうになってきて
その子は、とても真面目な子で、絶対忘れ物なんかしないし誰と遊ぶときも遅刻しないし、ドタキャンなんて言葉とはとんと縁がない。
めちゃくちゃ「良い子」で、色んな人から信頼されている。
でもだからこそ、不真面目な人や遅刻魔にモヤモヤすることも多いみたいで、事あるごとに
真面目に頑張っている人が報われる世の中になってほしい」とぼやいている。「こんな白黒つけたがる私が子供なのかもしれないけど」と添えて。

気持ちは分かる、大学も社会も、真面目に頑張ってなくてもいい評価を得ている人もいるし、逆に真面目に頑張っていても報われない場合がたくさんある。
残念ながらそれが実情で社会の定理なのだから、彼女自身が世の中の見方を改めて公正世界仮説を卒業しないとずっとしんどいままだってわたしも分かるんだけど、じゃあその場合真面目が取り柄の彼女はこれからの人生頑張れるんだろうかと不安になってしまうし、彼女には報われてほしいと願ってしまう。
だから「大丈夫、あなたのことは誰かが見てる」「あなたは信頼されている」って声をかけるけれど。


それと、頑張っているけど報われない人と関わるのってやはりしんどくて。
イメージしやすいのは一緒に受験勉強頑張ってきた友達が落ちてしまって接し方が分からない、、、とかなんだけど、今わたしが直面してるのがそれが自分につながってしまう場合のこと。
どういうことかというと、先日わたしの前任者のやらかしが見つかって、それをわたしがリカバーしないといけなくなって。それで最近はわたしの帰る時間が21時をいつも回っていて、普段の業務なんて全くできなくて。だから、めちゃくちゃ前任者はわたしに謝ってくれたのね。ほんとにごめんなさいって。
わたしは前任者が、きちんと仕事しようとして、でもできなくて、うまくいかなくて、不器用で、やらかして、だけどそれでもちゃんと仕事に向き合ってる誠実な方だって知っている。
知っているからこそ、苦しくなる。
言葉を選ばずに言うと、せめてもっとクズでいてくれたら、わたしはあなたを心の中で責めることができたのにって思って。
でもその人は、いつも業務に困ったわたしを助けてくれる人だし、感謝の言葉がまず浮かぶし、責めることなんて絶対できない。責められないからこそ、やらかしリカバー中も苦しくて。
これって「頑張っている人が報われなかった⇒それが自分に降りかかっている」構図だから、もう災害みたいなもんで誰も何も悪くないし、、。
頑張っている人が必ず報われる世界だったら、わたしも苦しまずに済んだのかなって。

話が長くなったけれど、結局わたしの心にも「頑張っている人は報われるべき」って思考は少しでもあるし、多分他の人の心にもあるのだと思う。
だからこそ世界が公正でないことを思い知りながら生きていくのは理不尽で苦しいことだけれど、どうせ向き合うしかないんだったら「運が悪かった」とか「後から振り返れば笑い話になるわ」とか、適当に現実をあしらって歩いていこうと思う。