約束
大人になったら連れていくと約束していた喫茶店の前を通った。
あれはキミがまだ小学校に入学する前だったね。
ボクが休みの日に仕事がしたくて家を留守にする際、まだ幼かったキミにこう言われた。
「ねぇ、パパ。おとなになったらわたしもつれていってくれる?こーひーのおみせに。」
ボクは満面の笑みをたたえながら、幼いキミを抱っこしつつ大きく首を縦に振った。
コロナが社会を大きく変えたころ、ボクはキミと家族ではなくなった。
やさしいキミはママを一人にはできないからとボクに手紙を残し、ボクの前から姿を消した。一人取り残される形となったボクはそれからのことを深く思い出すことができない。
独り身となって最初にしたのは家の大掃除だった。
不要となった家具などをもろもろ処分したあとに残ったのはだだっぴろい空間だった。独りになって自由を手に入れたと思っていたが、手に入れたのはぽっかりと大きくあいた心の穴だった。
コロナが終息にむかおうとすると同時にボクも自分を取り戻していった。
人間やはり慣れてしまうものなのだなと、自分で自分を笑う余裕もでてきた。家族と暮らしていたころの場所にも徐々に出かけることができるようになっていった。
そんなある日、たまたま喫茶店の前を通りかかった。
わすれていたものが唐突にボクの記憶の片隅から蘇ってきた。
あの頃のキミがあどけない笑顔でボクに微笑みかけてきた。
「ねぇ、パパ。約束したでしょ?コーヒー飲ませてよ。」
ああ、そうだったね。
まだ約束を果たしていなかったね。
まったくダメなパパだ。
突然だけど今からでもいいかな?
遅くなったかわりにキミが大好きだったチーズケーキもつけちゃおう。
パパはおなかがすいているからナポリタンにしようかな。
店内にはいると入口に名前と人数を記入する紙が置かれていた。
ボクはそこに名前と人数を記入した。
しばらくすると、店員が2名でお待ちの××様~と呼んだ。
ボクは軽く会釈をすると店員は不思議そうな顔で、人数に間違いがないか聞いた。ボクは人数に間違いはないと告げ、待ち人なのだと告げた。
席に案内されたあと、ボクはキミの分のコーヒーとチーズケーキとナポリタンを注文した。
30分ほど経過したころだった。
もうひとつ忘れていた大切なことを思い出した。
「パパ、こーひーやさんにいったらわたしのチーズケーキを一口あげるね。」
そうだった。
キミはいつも人のことばかり心配するやさしい子だったね。
コーヒーもすっかり冷めてしまった。
ひとくちだけ、もらってもいいかい?
ナポリタンの味はほとんどわからなかった。
店員を呼び、チーズケーキをテイクアウトできるか確認すると可能だと教えてくれた。
ボクはそれに甘えることにした。
会計をすませ家路にむかおうとしたとき、キミと同じ歳くらいの女性とすれ違った。
ボクはそっとこう告げた。
約束果たせたかな?
すっかり遅くなってしまってごめんね。
その女性が一瞬ボクのほうをみて笑った気がした。
一言だけいわせてくれるかい?
パパはいまもキミのことが大好きだよ。
End
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