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悲しい事故

-ひと月前に起きた「悲しい事故」


私はうつ病に倒れるひと月前、人生でいちばん悲しい事故を目撃しました。「目撃」というと他人事の様に聞こえてしまうのですが、そう表現するに相応しい、大変痛ましい数十秒でした。

それは散歩先から保育園に帰ろうと支度をする最中に起こりました。散歩の主目的は公園の池にいるオタマジャクシを観察する事。1人ひとつずつ紙コップを配り、池からそっとすくって観察したら最後は池に戻す約束でした。

飼う分は既に先日の散歩でクラスに保管してあるため、この日はほとんどの子どもが約束通りに池にオタマジャクシを戻しましたが、中には愛着が湧いて名残惜しそうにしている子もいました。

「普通の保育士なら」ここがポイントかも知れません。私は気持ちの切り替えがしにくい子どもたちがいると想定していましたし、「オタマジャクシとバイバイしたい」という子どもの気持ちに心を寄せていましたから、気持ち良く出発するには時間がかかるなと考えていました。

しかし、当時4歳児の担任の先生は、後方の池のほとりで切り替えが出来ないでいる子の気持ちに耳を傾けるどころか、平気な顔でこう言いました。「10のうちに来ないと出発するよ!いーち…!」
いつもの嫌なカウントダウンが始まりました。

整列していた子どもたちに水分補給をさせていた私は、池のそばにいる子を迎えに行こうと橋の欄干にさしかかりました。この時点で「自分を迎えに来てくれた」と思えば私の方を向くはずのその子の意識は、先頭で鬼の形相で数を数え出した担任の方を向いていたのです。

そして次の瞬間、焦ってつまずき橋の欄干にあるコンクリートの部分に鼻をぶつけて骨折する大事故になりました。

すぐさま駆け付けたのは私と、もう1人のパートの先生だけ。担任は様子も見に来ません。
出血を止め、鼻を冷やし、応急処置を終えたその子の手をむんずと掴み、「行くよ!」と先頭をスタスタと歩き出す担任と、怪我をした子ども。

大きな怪我をした時は事務所の先生に応援を呼ぶ決まりでしたが、携帯電話は担任の先生が持っていたため、報告はせずにそのまま歩いて帰ることになってしまいました。

この痛ましい事故は当然のごとく、この先様々な批判を浴びることとなります。

-「終わっちゃう」とはどういう意味か



後々母親がその子から「終わっちゃうと思った」という絶望的な言葉を聞き、園が何か隠していると思ったそうです。親でしか分からない、親だからこそ気づけたその言葉の持つ本当の意味とは。

10までのカウントダウンが単なる数字的なものではなく、精神的な何かが隠されているのでは?
親御さんの求めていることと、保育園側の見せようとする誠意のある対応は乖離していきました。

それはそうです、保育園側は「あの」事実を知りませんでしたから…。

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