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自分の文章で誰も傷ついてほしくない

皆さんは、誰かの文章を読んでいて心臓がぎゅっとなったりドクッとなったりした経験はあるでしょうか?
今日はそんなお話です。



本日のご挨拶

こんばんは、雪猫なえです。

アニメって全部持ってかれますね。脳が疲れてきても勝手にどんどんどんどんテンポ良く進んでいく映像ってすんごい破壊力(消しなよ)。
何もつけずに作業をシングルタスクでこなすべき。でも流しっぱなしで話数を消費したい。でもそれは本末転倒だとわかっている。こんな葛藤(?)の中過ごしています雪猫です。

やっと雪が溶けてきて、道路が見えています。もうこのまま春が来てくれていいんじゃないかなーと珍しく思っています。歩きにくいので。
毎年春夏が来るのが憂鬱で、今でも別に憂鬱にならないわけではないのですが、人生で初めてレベルで「春よ来い」と思っています。


それではそろそろ本題に入りましょうか。



文章を書くこと

誰しも……だと思うのですが、自分の文章の中って自分の世界じゃないですか。一次創作の世界同様、というかnote作文も一次創作かもしれませんね。既存キャラクターの小説を書くなら二次創作ですが。

で、雪猫も自分の世界の中で文章を綴っていくわけで。そうするとどうなるか、エゴにまみれるんですよね。誰でも、大なり小なり、そうだと思いますしそれは無意識下で行われる作業だと思います。



自分の文章

自分の記事を書くときは、自分の信念とか信条とか持論とかそういうことを詰め込んで書いています。意識的にというわけではなく、そういう風に文章って書いていると思います。少なくとも雪猫はそうです(なんだか煮え切らないまどろっこしい文章ですね)。

雪猫は小説も書くのですが、小説での自分の文章も好きです大変稚拙で生硬な文章で、構成だってもちろん初心者オブ初心者ですが、それでも読んでいて楽しいです。自分(の文章)に酔っているとも言えるかもしれません。

でも、創作って自分が良いと思えるものを作る事が肝心要というか一番重要だと思うので、それで満足しています。プロではないですしね。

創作者は、完成品はもちろんですが、創作過程に楽しみを見出しているはずなので、必ずしも完璧な作品を作る事だけが目的ではないと思っているからです。完成作品は、あとから、何回でも何回でもリメイクして、そして完璧に近づけていけば万歳じゃないでしょうか。



他人の文章を読んだ経験

他人の文章を読むとき、どうしたって自分に言われている感覚で読みます。小説でもビジネス書でもエッセイでもなんでもです。読む作業のときに俯瞰視点であることは少ない気がします。
雪猫はそういう主観タイプの読み方をします。

他人の文章は、時に押しつけになります。持論の押しつけです。

だから、時に怖くって、読むのを警戒して躊躇ってしまいます。



再び、自分の文章

だから、発信者として、創作者として、文責者として、他の人が雪猫の文章でそういう思いをしなければいいなと常々思っています。

あぁ、今回も本題まで時間がかかりましたね(笑)今日はたったこの一言が言いたかったんです。



雪猫の「押しつけ」

自分の考えを読んで、「否定された」とか「私って駄目なんだ」とか
「嫌われてしまうようなことをしているのかな」とか……ちょっと具体例が上手くないですが、そういうことを思う人が極力いなければいいなと思います。



まどろっこしい文章

だから、雪猫の文章はいつでもなんかぐちゃぐちゃします(苦笑)

保険を並べ立ててしまうのはこの気持ちのせいです。読みやすさと(保険をかけて自己防衛をするという)他者へのエゴを天秤にかけていっつも後者を取るんです。いずれにせよエゴなんですけど。人間ってエゴで構成されているのでそれはいいとして(もう何がなんだかな文章ですね)。



余談:頭の中

ぶわーーーーーってね、こう思考が巡るんですよ。それで収拾が付かなくなると、わかりにくい文章の完成です(笑)

頭が回ることは良いことのはずなのに、そのせいで頭が回っていないように見られてしまうとはなんという皮肉でしょうね。
だからこうやって文章に落として校閲もできる環境で書いているんでしょうね。

ある種の鬱憤晴らしなのかもしれません(苦笑)



閉じましょう

これ以上収集が付かなくなる前に閉じておきましょう。

実はこの記事も、書いて、書きながら「なんかぐちゃぐちゃだ」と思って寝かせて、今読み返して結局そのまま投稿しているという状況です(笑)


それでは今日はこの辺で。また。

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