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【クルゲシ】休日(962文字)

山の気候は七月でも寒い。石橋たちが早朝登山道に足を踏み入れたときには、朝早いからこんなに寒いのだろうと思っていたが、正午になっても気温はほとんど変わらなかった。

「山は寒いからあったかい格好してきてね」

経験者でリーダー役の羽根がそう繰り返していたとき、石橋らのうちの数名は「また彼女は大げさなことを言っている、いつもの癖だから割り引いて受け取らないといけない」と考え、アイスコーヒーをすすったものだった。

が、今となっては「羽根がちゃんとアドバイスをしてくれてよかった、そうじゃなかったらTシャツ一枚で来てたかもしれない」と石橋はぞっとする思いで感謝していたし、その恩をすっかり忘れていまだに「羽根は軽薄なおしゃべりで信用できない」と思っている人も上着のありがたさは身に染みて感じていたのだった。「自然の中で人間はなんて弱いちっぽけな体温しか持っていないのだろう」とそのうちの一人は何度も思いに沈んでいた。

暗い部屋の中で、何度目かのベルが鳴って、鳴り止んだ。
すばやく身を起こす音がして、ドタドタと足音、なにか書類の崩れる摩擦音。
カーテンが勢いよく開かれると、鈍い光が差し込んで、分厚い体の白いTシャツ、倒れて床に流れるように広がった本のタワー(奥の方に赤い表紙のが一冊あって、ひときわ目を引く)。汚い部屋。

毛先のはねた歯ブラシにチューブが近づく。絞っても出ず、苛立たしげに力を込めた指先が白くなる。
ようやく出たペーストより、空気の抜ける音の方がでかかったくらいだ。

今日は曇りだ。山頂にはすでに数名人がいて、どういうことかと見下ろしてみると、すぐ石段の下に駐車場がある。

「車だったら五分で登れるよ」

羽根は明るい声で楽しそうにそう言うと、一行を山頂広場の反対側に連れて行った。

そこからは町が一望でき、自分たちの暮らしている一角が、そしてそこに滞り澱んでいる悩みがいかに小さく狭いものかと思わないこともなかった。すくなくとも日々の生活音も喧騒も、ここには届かない。

晴れた空、大きな建物の向こうで白煙、黒煙が上がり、建物の何倍にもふくれ上がる。お父さんが亡くなり、お母さんは双極性障害で何もできなくなる。アトピーで荒れた幼い妹の腕に薬を塗ってあげ、部屋の明かりを消し、流しのくすんだ電灯の下で、まだ中学生の女の子の洗い物の手が止まり、茶碗とスポンジを持った両手から、泡の混じった水がしたたっている。

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