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【亡き父について】

◆2年前、父が85歳で亡くなりました。80歳の
 時に前立腺ガン罹患が発覚した頃から、医師から
 「余命は平均すると5年」と聞かされていた為、あ
 る程度、父本人含め家族は覚悟をしていました

◆父の「人となり」
・仕事に対してはすこぶる「真面目」な人で、毎朝
 5時に家を出て22時頃に帰ってきた
・地頭はとても良かった
・勉強や学習等の努力はしない人だった
・若い頃、新聞記者を目指していた
・「フィリピン生まれの帰国子女」という、世代と
 しては、稀有な経歴を活かして、大手新聞社の面
 接に漕ぎ着けたが、日本語以外全く扱えない事が
 面接でバレて採用には至らなかった
・早稲田大に憧れていたようで「都の西北、ワセ
 ダ、ワセダ〜」とかいう校歌をいつも歌っていた
 (本人が卒業したのは国内最下層の地方Fラン大)
・行書体の字は上手く、勤務先でも定評があった
・目立ちたがり屋で歌は必ずと言っていい程、一番
 最初に歌い出した
・酒は弱く、ビール3杯以上飲んでいる姿を見た事
 が無い
・ギャンブルはしないが、若い頃、近所に住む医者
 に麻雀でカモられて、タナボタで得た立ち退き料
 を巻き上げられた経験がある
・プライドは高く、バカにされる事をとても嫌った
・人の悪口は言わないが小さな自慢話は好き
・大学卒業後、代用教員を1年勤めたが正式採用
 には至らなかった
・最終キャリアは食品卸売会社のグループ企業の
 小さな小さな四国の会社の社長だった
・60歳で退職後、絶対に働こうとしなかった
・将棋が好きで「自称初段」だった
・叱られた事はあったが、怒られた記憶は無い
・一度も家族に手は挙げなかった
・(多分)浮気は出来なかったし、やらなかった
・好きな言葉は「鶏頭牛後」と「三本の矢」
・「春を愛する人は〜」という歌を替歌にして
 子供3人の名前を無理やり入れて良く歌っていた
 「♫(長男)(長女)(次女)、苗字は○○で
 す〜」
・文章は「箇条書きで」と良く言われた
・遺言は「(家と僅かな)遺産は全て母に渡して
 欲しい」だった
・数年は酸素ボンベを携行する生活で、最後の
 1週間は母に下の世話もしてもらっていた
 夜中に自分でボンベを外してしまった事で
 容態が急変して亡くなったのだが、プライド
 の高い父のことなので、下の世話まで母に
 させてしまった事に耐え切れず、事故でなく、
 自分からボンベを外したのではないかとも思
 っています
 

◆反省点
・中学生の頃、父に「早稲田大に入れてないのに
 早稲田大の校歌歌って恥ずかしくないのか」と
 言うと、父はそれ以降、早稲田大の校歌を歌わ
 なくなった。悪い事をした
・高校生の頃、校則で禁じられているアルバイト
 をしようと父と交渉したが「絶対に許さない」
 と言われ、取っ組み合いの喧嘩をした(手はあげ 
 られなかった、それが父との最初で最後の喧嘩
 だったと思う)
・私が東北に単身赴任中で、死に目に会えなかった
・孫の顔を見せてあげられなかった
・ここ20年、年に1度位しか会いに行かなかった
・妻は私の実家に泊まるのが苦手で、ここ10年以上
 日帰り帰省しか出来なかった
・大して出世せず、小さな自慢をさせてあげられ
 なかった
・感謝の気持ちや父への愛を殆ど言葉にしなか
 った

◆今回記載の理由
・父が亡くなり、既に2年が過ぎ、父の事を何か
 に残しておきたくなりました
・父さん、育ててくれてありがとう! 
 一度も言わなかったけど、貴方の事を
 尊敬し愛していました


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