フリーターの日記 3/26

小説を書かなくなってから、もう一月。
書かなくなったというか、書き上げてから、『これを本当に俺は作品として誰かに見せたいのか?』と思ってしまった。
思えば、書くのが楽しく、没頭しているのが楽しく、誰かに読んでほしいという気持ちは薄かった。
そこを見ないふりをしていた。

三文小説であろうと、『小説を書く』という行為には多大な労力がかかる。
多大な労力をかけて物事をやっていると、多少なりとも自己肯定感が湧く。作業興奮は、『何も生産していない自分』を否定するからだ。
自己肯定感が欲しかったのだなあと、今思う。
しかし、その自己肯定感など一過性のものだ。
読者のことを鑑みず、レバガチャのようなごり押しで書き進めた小説は、自分で読み返しても『読みにくっ』となる。
なってはいけないのだ。小説なのだから。

週五で働いたら精神が死ぬなと思い、割と悩みなく始めた週4フリーター生活。なんやかんや無欲なので、生活は黒字で回っている。

しかし、将来の展望の方は、小説を書いたりだとか、ボードゲームを作ったりだとかにベットしていた。絶対にこれを職にするぞという気概ではなく、種を植え、水を撒き、芽が出て実を結んだらいいなあという程度の努力。

その植えた種そのものに、『やっぱり芽がなかった?』となりかけている現状、焦燥5割、平常5割という気持ちがある。

元来、先のことを考えるのは嫌いだし苦手だ。そして、夏休みの宿題はぎりぎりで間に合わせてきた。『死にはしないしなあ』という楽観が、まだある。

25歳。もうアラサー。これから人生は劇的に変わらないんじゃないか? と不安な自分と、今の、週4で働いて、(自分よりも個人主義な)友達とシェアハウスして、ゲームなり、気ままに創作する生活を気に入っている自分。

欲しいものは、金と、社会的承認と、自己承認。
けれどそれを、あくせく頑張って、創作でも、就職でも、して、得たいか?

話がずれるけど、最近、遠い大地の自然動画(アフリカ)とかを見て、画面に移りこむ鳥とか虫とか、水とか石とかに想いを馳せている。

こんなこと考えている間にも、彼らは普通に生きているのだなあと考えると、不安な気分が遠のく。鳥は毛づくろいしたり、虫は食べ物運んだり、水は流れたり、石は1000年水に打たれ続けたりしているのだ。そこに懊悩はない。ただひたすらに、生活がある。

『何かを成し遂げなきゃ』という酷く人間的な懊悩は、『ただ生きて死ぬ』という大自然の哲学を思えば薄れる。

今の『雑に生きている』自分は動物的だ。
(アフリカの動物は、もっと必死なんじゃね? というのは、それはそうなんだけど。)

本音を言えば、みんなもっと雑になってよと思っている。
25歳フリーターを、社会が、親が、そして自分が、もっと許されるようにならないかなぁ。一応、黒字ではやりくりしてるからさ。

でも現実はそう甘くないから、今日も『とりあえず文章を書いてみよう』という行為で、自分を慰めている。

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