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「唯一無二」の写真とは何なのか?

またコロナの感染者数がぞくぞくと増えてきましたね。なんとなく、外に出づらい日々が続いています。まあ、みんな出てるけど、、

こういうときは写真について考えるしかないですね。

写真家として写真を撮っている時、たまに考えるのが「この人ならではの、唯一無二の写真」。著名な写真家だったら、まずまちがいなくこの人はこの写真、みたいなものがありますよね。

例えば、有名すぎるほど有名な、アンリ・カルティエ=ブレッソンの、「サン・ラザール駅裏」ですね。ぜひ、このページを離れていいので、検索して写真をご覧になってください。

これぞ決定的瞬間というやつですね。

こんな写真が撮りたいな、いや、写真家だったらこういう「ザ・俺」的写真を撮らないといけないんじゃないか。

そう思ったりすることもあります。

そこで、今回はこのザ・俺的「唯一無二の写真」とはなんなのか?ということを考えてみたいと思います。

まず、唯一無二の写真とはどういう構造なのか。まず、「唯一無二でない写真」がどんなものかを考えてみましょう。

唯一無二でない写真。

撮ってみたけども、なんか、普通だな、、これ、誰でも取れそうななんの変哲もないきれいな桜を撮っただけだな、、、例えば、桜の花がきれいだと思って、一眼レフで写真を撮っている人がいたとします。周りにも同じように写真を撮っている人で溢れています。そんなところで同じような被写体を選んで、多少構図を変えたところで、これが唯一無二だ!と思えるかな、、、うーん、違うな、、、みたいな。

自分だけの写真を撮ろうと思っても、何か陳腐な感じになってしまう。

これの、いったい何が問題なのでしょうか??

構図やRAW現像のやり方といったテクニック要素でしょうか。それとも哲学が無いことでしょうか。世の中の流れを読めていないことでしょうか。

僕は、いずれもハズレではないと思います。それぞれ必要だし、きっと正しい。否定できない。


しかし、僕には違う答えがあります。


それは、「唯一無二でない写真など無い」ということです。

どういうことでしょうか。

まず最も単純に文字通り考えてみましょう。唯一無二の写真とは、写真の要素のうち、少なくとも1つ以上の要素は他と同じところがないということです。

おや、少しわかりにくい表現になりましたね。もう少し定式化してみましょう。
「写真」が持つ要素として、いま簡単に{被写体、構図、色調、ボケ、時間}の5要素があると想定します。その時、唯一無二の写真とは、この5つの要素のうち少なくとも1つは他と異なっているということです。本当は5つ全部が他と異なっているほうが唯一無二感はあるのですが、ここでは唯一無二のハードルを下げるために、あえてそう言っています。

この時、{被写体、構図、色調、ボケ}は限りなく同じにすることができそうですね。同じようなカメラで同じような設定で同じ構え方と姿勢と角度で被写体を捉えれば、同じ写真が取れそうです。しかし、時間だけは同じにできない。同時に取るには同時にその空間で少なくとも2台のカメラが同じ座標位置で同じ設定で同じような撮り方をしている必要があります。ところが、同時に同じ箇所にカメラが存在するということはありえない(物理的にどちらかのカメラがその場所を占めているので)。したがって、同時にすることは原理的に不可能、ということになります。物理学的にも相対性理論によって同時性は否定されています。
これは、いかなる写真も同時には撮り得ず、したがって時間概念が写真の要素に含まれている限り、この時間に関しては同じ写真が撮れないことが確定しているので、あらゆる写真は必ず5つの要素のうち1つ(=それが”時間”)は他と異なっているため、あらゆる写真は少なくとも時間に関して唯一無二である、と言えるわけです。

そもそも唯一無二な写真しかないのに、「自分もいつかは唯一無二の写真を撮りたい」と言っているということは、平たく言えば「そもそも唯一無二な写真しか撮れないのに、自分の写真をそのように評価できていない」ということになります。

では、一体どのような評価軸で自分の写真を見ているのでしょうか。


それは、簡単に言ってしまうと「本人の思い込み」です。

「誰々のようなインパクトのある写真が撮れない」「奇をてらって加工を工夫してみたが、どこぞの写真家と似たようなテイストになってしまった」など、こうした思い込みは、写真について誰かが語っている文章を読んだり、誰かから写真の「あるべき姿」を吹き込まれたりしていつの間にか自分の中に価値基準として組み込まれたものです。

どうやったって唯一無二の写真しかないのだから、「どうすれば唯一無二の写真が撮れるか」をイシューにして写真をとることは避けるべきだ。避けるというよりも、もはや、無駄である。馬に乗りながら、どうすれば人間は馬に乗れるのかを考え、悩んでいるようなものではないか。そう思うのです。


唯一無二の写真を求める姿には、このように、自分自身が写真と向き合う姿が欠如しているのではないかと僕は思うのです。

唯一無二はすべての写真に当てはまる。

とはいっても、世間には「唯一無二の写真」として、著名な写真家の代表作のようなものがあるじゃないか。

たしかに、そうです。あります。

世間がイメージしている「唯一無二の写真」は、写真家が追い求めている写真と、世間の評価や潮流といったものがKissした瞬間生まれたものです。
そこには必然性と偶然性が介在しています。その結果だけをみて、それを作ろうとして他人とは違う写真を、、、とか、自分なりの表現を、、、とか思っても、無駄なんじゃないでしょうか。

そんなことよりも、自分が撮りたい写真を撮り続け、誰かがたまたま高く評価してくれたら、それは喜べばいいという話にすぎないものを、結果から逆算しようとするからおかしなことになるのではないでしょうか。

自分が求める表現をするために写真を撮つづけ、写真を通して自分の世界観を創り上げる。ここに世間との接点ができたとき、世間からは「唯一無二の写真だ」と評されることが「あるかもしれない」。

ただ、それだけのことです。

写真家が「唯一無二の写真」を撮るとゴール設定することはアリかと思いますが、そこに到達するまでの道のりは、まさに"invent on the way"*1なのです。


脚注:

*1:ゴールが先、プロセスは後。ゴール設定によりスコトーマに隠れていたゴールへの道が現れる。最初から決められたルートを通るのではないということ


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