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「君の物語はおもしろくない」に感謝して生きています

 少し前、私は小説を創作することを趣味にしていました。

 もし運が良ければそれで生きていけたらいいな~なんてことも考え……妄想したこともあります。

 趣味で文字を編んでいる人たちの中にはそういうことを考えている人も多いかと思います。

 だって憧れるじゃんね、印税で暮らすの。

 だけど今はもう物語を作ることはやめてしまいました。

 や、なんだかんだでおはなしは作っていはいるのですが「小説」という媒体からは離れてしまいました。

 憧れはもちろんあります。

 本を読むことはやめていませんし、もし物語を作らせてもらえる機会があるなら挑戦したいです。

 しかし気付いてしまったのです。私には物語を作るには圧倒的に才能が足りていないことを。

 一時期は自分で物語を編んで、印刷所へお金を払って、文学フリマに持って行ったこともあります。5回くらい。

 文学フリマの現場で売れる・売れないってのは宣伝力による部分も多いので、私の編んだ文章が稚拙かどうかはさほど関係がないのですが。

 当時の私には知り合いもそこそこいて、お付き合いで買っていただいたこともありました。

 その節は本当にありがとうございました。

 アンソロジーに協力してくれた人もたくさんいました。

 本当にありがとうございました。

 それからすこし経って、私の作った本を読んだ知り合いのひとりから感想をもらいました。

 「君の作る小説はあんまりおもしろくないね」

 私は(ああ、やっぱりそうなんだな)と冷たい納得をしました。

 その感想に対して怒ったり悲しんだりした覚えはないので、「そっか~」くらいにとどめていたんだろうと思います。

 実際、怒りも悲しみもありませんでした。

 どこか喪失感のような、でも受け入れるべきところに落ち着いたような、そんな感覚でした。

 もちろん、フォローとして「小説よりはエッセイの方が面白い」と言ってもらったことも覚えています。

 本人はただの感想として、フォローのつもりではなかったかもしれません。

 私自身はエッセイとか感想文とかって面白いと思っていなかったので、驚いたと記憶しています。

 だけど現実、こうしてnoteが続いているのはそういうものの方が向いていたのかもしれません。

 そんな感想を受け取ってからも小説を書いたり、自分で本を作ったりはしていたのですが、やっぱり浅めの底が見えてきて、私は小説を作ることを手放しました。

 もし素直な感想がなければ私は何かを勘違いしたまま今でも小説を目指して、無駄な文字をこねくり回していたかもしれません。

 向いていないとか面白くないとか、創作者に向けて放つときはどうしても取り扱いが難しいのですが、私の場合はその知り合いの毒気のなさに救われたのだと思い、感謝しています。

 あるいはおべっかは意味がないことをお互いに承知していたのかもしれません。

 ともあれ、私は小説がおもしろくないと言ってくれる知人がいたおかげで今を生きています。

 あのまま頑張っていたらまた違う今だったかもしれないけれど、それはそれで苦しい道だったかもしれません。

 努力も才能。諦めることも才能。

 あのときはどうもありがとう。

 またコーラでも飲みに行きましょう。

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