意外と大人な子ども、意外と子どもな大人ども
意外と大人な子ども、意外と子どもな大人ども
子どもだった頃、私は大人って偉いんだと思っていました。
当時の両親は厳格とまではいかないにしても、マナーや教養には一般家庭に比べると厳しかったように思います。
今は表面上はお上品な人間に擬態することができているのでその点では両親にとても感謝しています。結果論ではありますが。
そんな家庭で育ったこともあり、学校でも優等生として振る舞うことができ、教員からも悪い印象はあまり持たれていなかったと思います。
純真無垢な少年として十数年を駆け抜けた私が現実を知ったのは高校卒業後。
もちろんそれまでもぴんぴんのバカとしてすべてを信じていたわけではありません。
嫌いな英語教師がいたり、十年以上経った今でも恨み辛みをぶつけている理科の教師がいたり、今からでも可能であれば刃物を頸に突き立ててやりたい古典の教員もいます。
それでも彼ら彼女らを「教師」というくくりで見ていたわけではなく、嫌いなアベ先生、殺したいマツモト先生として個別に認識していました。
私が不特定多数の大人に理不尽な偏見をぶつけ始めたのはコンビニでアルバイトを始めてからです。
コンビニには数多の人間がやってきます。
私はどでかい駅前にあるコンビニにいたので、朝夕はもう怒涛のように人が押し寄せ、店内には長蛇の列ができていました。
レジを打つだけで3時間は吹き飛ぶような忙しさだったのですが、そこではいろんな人を見てきました。
気が利く人、もたもたする人、いつも愛想よくしてくれる人、大抵イライラしている人。
1分も関わることのない、すれ違うより少し長い時間でしかないのですがそれだけで人間性が剥き出しになっているのです。
これまで学校という閉じられた空間でしか生活をしてこなかった私ですから、急に開けた世界の広さとあまりの酷さに当時は戸惑い、すこしだけ怒りました。
挨拶をしましょう。他人にはやさしくしましょう。
小学校の学級目標レベルのことができない大人があまりにも多い。
その人たちには成人もしていない若者への舐めがあったかもしれませんし、元々そういう人たちだった可能性もあるでしょう。
どちらにせよ私が大人に対する幻想を打ち捨てるには十分な経験でした。
これとは逆に、子どもは意外と子どもではないということも記しておきます。
子どもは大人から学びを得ています。
なにかを発信する方法が限られているだけで、受け止めて考えることは子どもにもできます。
わからないだろうと思って大人が発した言葉が子どもに刺さってしまった場合、それを何年も引きずり続けていることもあるでしょう。
大人も知らないことを言って褒められたことのある子どももいるでしょう。
私は幼いころから本を抱えていた子どもでした。
小学校1年生くらいのころ、私は当時流行っていたハリー・ポッターの本を読みたいと言ったそうです。
母親は「まだ子どもが読むような本じゃない」と買い与えることを渋っていました。
当時はまだ絵本や児童書くらいしか読んだことがなかったので、ハードカバーで厚みのある本はまだ早いと思っていたのでしょう。
その話を聞いて私と母の背中を押してくれたのは私が通っていた学習塾の算数の先生でした。
先生は「子どもが興味があるなら買ってあげたほうが良い」と言ってくれたそうです。
子どもの興味の力はすごいもので、私は買ってもらった本を読み終えて次々と続巻を読みました。
いとこのお姉ちゃんに借りたダレン・シャンを読んだのもそれくらいの時期だったように思います。
大人が考える対象年齢って当てにならないという教訓を得られるこのエピソードは今でも実家に帰ると語り継がれています。
算数のヒヤマ先生には感謝しています。ありがとうございます。
こうして見返すと、みんな大人だしみんな子どもなんだろうと思います。
というか、子どものときから根っこにあるものって変わらないんでしょうね。
経験を経て理性や知恵を獲得しただけの年を食った子どもというか。
中身も多少は詰まった子どもでいられるように気を付けます。
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