240403/雑記

X(旧ツイッター)っていつまで言われるんだろう。
めんどくさいうえこの上ない。
自分はあまり文章として上記の呼び名は使用しないけれど
口語で使うときにあれ?どっちで俺は今言っているんだ?
なんて一瞬戸惑う。
要としては伝わればいいじゃんだって俺一般人だし。
なんて思ってツイッターとか口語で使ってると
「Xね。」なんて、誰かから言われる。
分かってりゃ横槍入れてくるんじゃねぇよ。
至極どちらでもいい。

それはさておき、なんでそんな事を思ったかって言うと、
少し思ったことを上のアプリでつぶやこうとしたときに
字数が足りなくなったので、それならばMIXI的な日記ではなく
仕事でも多少使ってたし、適当に使うnoteでいんじゃね?
と思ったから。
それでもMIXIの日記なんかはその時自分ののケツの青さが垣間見れるので
タイムカプセル的には丁度いい。
もしもMIXIがサ終するなんてことになったらアーカイブとして全部
ぶっこ抜いて一人で酒でも飲みながら晒し上げ祭りでも催そうかと思うくらいだ。
18、9の自分自身はそれくらい日々のことに関心を向けて書き留める
非常に面倒くさい作業をしていたことに改めて思い知る。
誰に強いられたわけでもない糞にもならない駄文を1時間〜2時間程度
書いては誰に読まれるわけでもなく、自己満、慢心のためにそれを使っていた。
承認欲求が高らかに扱われるようになった昨今、
糞駄文をなんの見返りもなしに書き留めるなんて
暇人のやること以外の何物でもない。
何を糧に書いてたんだろうな。暇だったんだろうな。
そんなことやってたら映像の企画書でも書きまくってたら良かったのに。

で、まぁ駄文ついてに思いついた事をぶっきらぼうに綴っていくとさ、
プレイステーションってあるじゃないすか。
あれ、当初はスーファミの拡張パックだとか、
任天堂とSONYが結託して作ろうとしていた次世代機っていう背景があるじゃないすか。
まぁここらへんの予備知識は日本に生きるゲームがそこそこ好きな人なら必修しているとおもっているけどまぁとりあえずね。
んでさ、今このご時世プレイステーションといえばナンバリングで新機種が
出てくるくらいのコンシューマー機になってるけど、
もしスーファミ前後の話をしているときにPSの話を持ち出したときに、
「え?それって任天堂と作ろうとしていたやつ?それともその後のSONYのやつ?」
なんて突っ込まれたらしちめんどくせぇなぁって思うよねってこと。

この前もバイク屋に行ったら最近HONDAから出たGB300と昔のGBもあってさ、一口にGBつってもどっちなんじゃいって。
バイクはそれこそ世代によって呼ばれ方が同じ車種がいっぱい出てくるけど、
じゃあどっちの話をしてるんだ?って、
バイク屋の店長と話してると俺みたいな半端モンにはそれこそその時生命として存在していなかった自分が得た知識上のファンタジーのような存在としてGBがあるわけさ。
そんで実機の昔のGBを見ると渋くてこれがまたいいんだよね。
そういう時のワクワク感ってさ、中々味わえたもんじゃねぇなって思うと
昨今の80'sやら90'sやらのリバイバルも悪くないなと思うけど、
バイクに関しては中身悪くなって外見オシャレにすりゃ売れるだろうなんて安直な事やってちゃ廃れるよ。ってかわかりにくいからやめてほしい。

んで、こっからXで書きたかったことなんだけどさ、
「サブスクでだいたい完結(簡潔)できる時代、
10代の頃見るものの大凡が真新しく感じられる瞬間が今まで
見聞してきたものを振り返った中にふと感じる瞬間がある。
それはとても懐かしく、自然に受け入れることができる。
時分の経験の中や人生の流歴に飲まれたこともあるけれど
その神聖な感性を常に取り戻せたのならば俺自身の持病が治った証明なのか、
それともジジィになって鑑賞に浸っているだけなのか、その分別はつくつもりだが、
いつまで経っても刺激的なアプローチを周りにおいておければいいと思う。」
っていう内容なんだけど、
これがまた難しい。

例えばビートルズが今のロックの基礎を作った(やり尽くした)って50代以上のオッサンは言うけれど、それから発展してったものは単純に「孫」なんて言葉じゃ表現しきれないのではないかと思う。
俺は自分自身好きな音楽しか聴いてこなかったから白番とか聞こうとしても
自身のメンタリティが「ソイツぁ疲れるからやめときな」なんて言ってきたりする。
時分の性格上、眼の前のものが通り過ぎるには時分との速度感が合ってないと受け容れざる部分が大いにある。
例えばBISH聞いてる若い人がいきなりダークダックスいいよね、なんて言い始めたら、その共通項は何処から来たの?って問いたくなる。
まぁ一部の人にそういう層が居ることも承知の上だが、中々レアな体験には間違いないと思う。
でも多分その人はすんげぇ面白い人なんだろうなぁって太鼓判を押すと思う。

とはいえだ、自分の本分はアニメ、古くはテレビまんがなんて言われていたものだ。
話は長くなりそうだが、アニメに関しては
「あんちゃん。古いのによく知ってるねぇ」なんて言葉は聞き飽きた。
ぶっちゃけ自分の心のなかでは「このご時世知ろうと思えば上っ面のことなんて大概知れるもんですよ」という一文を噛み潰して、
「好きなんで」の一言で済ます事が多い。
このことは書き出すと長くなりそうな気がしたのでまた改めて機会があったらちょっと触れようかなと思う。

二転三転死て申し訳ないが、今回のメインは音楽の話ということで
なぜ、10代の頃の感性(感動)が急に引出されるか?という謎に関しては鋭意精査中。
節回しなのか、コードなのか、歌詞に近いものがあるのか、
それとも音色なのか。
俺は音楽理論は勉強したい気持ちはあるけれど、
わからんちんのパッパラパーなので音に関してのアプローチは正直わかるようでわからない。
というのは昔のフレーズが使われているな、という部分に関しては冷静に聞いていると、
あー、あれはあの曲で味を占めて使いまわししてるなーとか、
まぁ流行りの節回しだしな、とか思うことはあるけれども
あくまで個人的に感じたことを不完全な脳みその中で統計化しているだけなので信憑性は15%程度だと思っている。。
で、今回その10代の頃の閃きのようなものを感じたのはイエモンの「ロザーナ」という曲だった。
ちょっと思い出すために一回聞いてみます…

分かったことは歌詞の部分。
いかようにも取れる自由律俳句の方な節回し。
過去と未来を同時に見ている部分、そこに俺は惹かれたのだと自覚した。
イエモン復活前の行きつけのバーのマスターと話していたら、
イエモンなんて歌謡曲をバンドにしたようなもんだろうと一色ににふされた。
自分でも分かっていたつもりなんだけど、人に言われると合点が行くことはよくある。
右でも左でもない、その当時の事を語っているから俺等のような宙ぶらりんなノンポリの生活に響くもの。
それはバブル期の大迷惑だってそうだろうけど、
今だから感じ取れるものはよくある。
服と音楽は回り回ってくるものだと言われるが、
おそらく丁度俺の精神性がそこにたまたまはまって居たということに尽きる。

良くも悪くも失われた20年とか30年とか言われるけれど、
その中で社会性を身に着けた俺達にとっては立憲民主党と自民党の言ったり来たりで、日本に住むものとしてすがるべきポリシーというものは
人生を緩慢と生きていた人たちにとっては剥奪されたり何かを手に入れたり、
そんな事言いながら俺自身は総理が代わったことさえ気が付かずがむしゃらにモノづくりに明け暮れていたので関係が無いが、
自分自身のポリシーというものはなんぞや?
というところに回帰して考える機会ではないかといつも思っている。
しかし自民は自己保身に走り、野党といつまでたっても終わらない
いたちごっこを繰り広げている。
自分のいる国がどう動こうと自分のやりたいことができること
それが現代の人にとって幸せなのだろうと思わざるを得ない。

話がごっちゃになって俺も考えがまとまらないが、
そのバンド、音楽を一直線にデキる人というのは幸せだと思う。
音楽以外でもそうだ。映画、詩、講座に落語、
特に前半はタダの金を回すだけの道具に成り下がっているかもしれないが、
だからこそ地方のライブハウスで特殊なクオリティ、
特殊な丁々発止で攻め入っているもので人のマジョリティを動かせるなら
メディアとしてそれに越したことは無いと思う。
しかしながらメディアの製作の御エライサンやら何やらというしがらみが死ぬほど個人的にはしゃら臭くてならん。

本物とはなんぞや?というものは個々あると思う。
自分の解釈も大いに入っているが、今の時代の本当に成就することが意味のあるかどうかわからんGSライドじゃなくて…SDGSか。
大切ではあるが、もっとミクロの視点で街を再興させる。
それが地方自治体には必要ではないかと切に思う。

まぁ一発目なんで適度にこれくらいにしておく。
noteのこういった使い方が良くわからんけど、
暇だったら連絡もらえたらお話でもしましょう。
それでは、明日に向かってごきげんよう。

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