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【雑談】私の修士2年間――自分へ

 研究室には毎年卒業生から振り返りを報告するという「定番」があります。どうせそのうち先生に言われるので、先に自分の修士2年間を片付けましょう。

 昨日(2/7)修論発表会が終わって、予想したオフモードに入らず、体内時計のせいで朝5時に目が覚めて、何をしたら良いかがすら分からず、いつもお世話になっている近所のスタバに来ています。夜ジムに行くかどうかを悩むのがイヤになってきて、考えるのをやめて、「定番」をやろうというのはリアリティです。ちなみに、今日頼んだ期間限定の「アール グレイ ブーケ ティラテ」は感動するほどおいしかった。さらにちなみに、スタバのメニュー名は不親切だ。特に外国人にとって、晦渋なカタカナ語が連発して、今日も注文した時に途中までしか商品名を言えなくなって、結局直接メニュー表に載せている写真を指しながら、「これをお願いします」と言っていました。最初からそうすれば良かったのに、と店員さんが思ったのかな。はい、文句はここまでにしましょう。

 今まで聞いた先輩たちの「定番」は研究と生活をキーワードとし展開していく印象を受けました。本当に役立つアドバイスを毎回たくさんいただきました。私も有用なものを持って来たいですが、今回はどうしても自分に向けて、"私の"修士2年間を振り返っていきたいです。

 時系列で振り返るとすぐに思ってしまいましたが、生活って時間で区切るものではなく、時間が生活の中に入り込んでいます。そこで、テーマから作りたいと思います。


1.シナリオ・演出

 このテーマはコロナに関わります。なぜなら、コロナ禍で、特に修士1年であった2021年4月~2022年3月に、授業があるかぎり、私はシナリオに沿って演出しました(しています)。ピンとこないと思いますが、説明します。私はつねにメモ(シナリオ)を読みながら、あるいは発表者ツールを使いながら、授業を受けたりプレゼンしたりします。オンライン、もしくはZOOMがかばってくれて、日本語が上手なキャラを演じました。授業中や発表後にどんな質問が来るかをたくさん想定し、完璧だと思う答え(シナリオ)をできるだけ多く用意しディフェンスします。

 本来、そういった「予習」というか、やったほうがいいことです。中国語で「未雨绸缪」と表現されています。日本語だと「転ばぬ先のつえ」の意味です。しかし、私の問題は「やりすぎた」ことにあります。知識や情報を「電脳」にバンバン詰め込んでいましたが、結局全部が私の「人脳」に吸収されないです。パソコンに頼り過ぎてしまい、その反面、重点が掴みにくくなって、本質から遠ざけてしまったことが何回もありました。

 一番印象に残っているのは、2021年11月の構想発表会です。ゼミではなく、コースの前で発表するのは初めてのため、確かに1ヶ月前からスライドを作り始めました。それ以外、ほかはなにもしてなかったような気がします。完全に構想発表の準備に入り込んでいました。50個くらいの質問と、それらに答えられるようなシナリオを作りましたが、ほぼ全滅という悲惨な結果でした。不幸中の幸いは、1週間後のゼミ発表で役に立ちました。努力は報われたと、自分で自分をそう慰めましたが、やはり大きなダメージを受けました。あれほど用意してきたのにという悔しい気持ちのほか、「完璧なシナリオ」は存在しないことを認識させて、ズレも許すべき存在だと思いました。ズレを許せないからいつも質疑応答を怖がっています。そして、シナリオの「量」より、「質」に重点を置くべきでしょう。じゃないと、時間が無駄になって非効率になりかねないです。もちろん、質問と回答を想定する過程は、知識を身につけるプロセスでもあります。その意味では、やったことはそれなりの意義があります。しかし、最近修論発表を準備した時に、もう1つ感慨深いことがありました。それは、知識を知れば知るほど、自分の小ささに気づきつつ、無力感を抱いてしまうことです。知識には限界がない。しかし、人間が受け入れられる範囲には限界があると私は思います。そこで、テーマを特定した場合、あまり欲張りしないほうが良いかも。あちこちに発散していくと、自分が何を主張したいかがすらわからなくなり、聞き手に納得させるのもさらに先になってしまいます。

 では、もしどんな質問を用意すべきかと聞かれたら、私には正確に答えられないのですが、経験から言うと、せめて「基本」「本質」を答えられるようにしなければならないです。「基本」というのは、論文のキーワードに関する、自分なりの定義、あるいは論文で使う定義を、明確に答えられることです。私は「構想」、「中間」、「修論」発表会に外れなく聞かれました。恥ずかしながら、毎回うまく答えられなかったです。反省します。最も基本ですが、読み手がわからないということは、論文で論理的に述べられないことに同等します。「本質」というのは、あなたの研究の「新規性」、あるいは「研究意義」に説得力を持って答えられることです。いい加減な叙述ではなく、まずは自分を納得させるように書きましょう。それは決して簡単なことではないと思います。


2.究極に迷った2択

 単刀直入に言えば、進学か就活かということです。

 学生である以上、誰でも直面する選択ですが、最初から決意ができた人は、それで幸せだと思います。しかし、私は最初から決めていなかったです。不幸とは言えませんが、今まで一番悩んだ選択だと言っても過言ではありません。それぞれの選択に対して、それぞれの考慮事項が異なり、十人十色です。

 私の場合、最初に決めたことは、日本では就職しない。日本が嫌いなわけではなく、単純に家族と離れられないタイプの人間です。しかし、コロナという誰でも想定していないことが起きて、帰国できずいろんなことがあり就活が遅れそう。一方、学校という環境が好きで、研究も楽しくてやっているし、学校から経済的な支援もいただいているし、家族も応援してくれているし、勉強したいことがまだたくさんあり、このまま卒業だと中途半端な感じをして、成り行きで進学を決めて、2021年の冬頃に先生に相談しました。しかしその後、今までにない「緊急事態」が我が家で発生しました。2022年3月のことでした。小さく言えば、両親の喧嘩です。帰られない私は1ヶ月ほど落ち込んでメンタルやられました。その時、卒業したらすぐに帰らなければいけないと思い込んで、就活の準備を始めました。お金も取られました。しょうがない。自分の焦りや不安を解消するために払った費用だと捉えています。ですが、まだ博士課程に進学するのをやめたくなくて、学会で発表したり、別のプロジェクトの授業を受けたりして、両方の準備をしました。自信を持って言えるのが、両方の準備をやめたほうがいいということです。私はうまく行けなかったです。辛かったです。うまくいける人もいると思いますが、私はマルチタスクが苦手で、やるなら1つに集中するタイプです。両方準備した結果、投げやりになってしまいました。
 
 家庭の事情が時間とともにだんだん落ち着いてきて、本心はやはり進学の道にあります。ただ、どうしても親と対面で相談したうえで最終決定したくて、手の届かない飛行機代であっても、2022年9月下旬に一旦帰国することにしました。ちなみに行きは20万円ほど取られて、財布がとても痛かったです。でも後悔はしない。当時心身は我慢の限界に来ていたからです。家族は進学のことをずっと応援してくれているし、修論の執筆も始まっているし、タイミング的には決して良くなかったのに、なぜ帰らなければいけないのだろうか。将来に影響を与えかねない重大な選択でもあるから、家族の生のFaceをみて、生のVoiceをきいて、次のステップに進みたかったからです。まあ、家族を想っただけかもしれないです。3年弱帰国できていないですもんね。その時落ち込んだ私を理解してくださった指導教員に感謝しています。2ヶ月間休みました。正直、修論は大丈夫かな、博士研究計画はどうしようかなと、自分のわがままにずっと不安でたまらなかったです。結果的には大丈夫でしたが。ちなみに、11月下旬に戻ってきて、1週間も立たずコロナにかかりました。

 奇妙なことですが、その逸脱な2ヶ月間で特に何もしてなかったにもかかわらず、帰ってきて心が澄み切りました。家族の力か、目標が明確になったからか、原因不明です。とにかく2ヶ月前に比べて、ものの捉え方が大きく変わっており、そこまで執念しなくて良かったのにと思いました。博士課程の大変さだけを見ると焦りつつあります。年齢や結婚などの将来のことを考えても、可変なものは可変で、現在やりたいことを着実にやればいいのではないか。現実を避けるための言い訳かもしれませんが、そのようなことを考えると不幸になってしまうのであれば、いったんほっておいたら?そのうちなんとかなりますよ。なんとか生きられますよ。この不確実性の時代で、100%将来を見据えなくても良いと思います。学位を取るという目標だけを執念してしまうと悲しいしです。それは任務ではなく、生活の1部です。戦うのではなく、一緒に成長していくべきです。それに、私は「事在人為(Human effort is the decisive factor./事の成否は人のやり方次第だ)」を信じています。知的な刺激を受けた時に何より嬉しく思います。


3.勉強のお供

 将来、日本を離れる時、スターバックス コーヒー 町田金森店は恐らく最も離れがたいところです。うちより、ほかのどこよりも、私の心を落ち着かせる場所です。なぜだろうと何回も考えました。1つ目の理由は、家に近いからです。徒歩6分の距離で、公共機関に乗らずに済みます。家にいたくない時に、すぐに受けてくれるということがわかるという心強い存在です。しかも駅の近くの繁華街に立地しているのではなく、あたふたした「通りすがりの人」が少なく、ほとんどは近所の方々が通っています。そのような「生活の味」がしみ込んでいることこそ、安心感を与えられたと思います。

 2つ目の理由は、金森店のデザインにあります。まず、天井が高くて開放感が得られます。「カテドラル効果(天井高効果)」という用語があり、抽象的・創造的な思考が促進される効果だそうです。私はクリエイティブな趣味に没頭します。ブログ記事を書いたり、ポスターを作ったり、下手なデジタルイラストを描いたり、動画を撮って作成したりしています。私にとってはストレスを解消する手段です。その意味で、金森店は最高な環境を備えてくれましたね。そして、店内に広いスペースがあり、テーブルとテーブルの間に気持ちよい間隔を空けています。オーダーメイドのようです。さらに、座り心地が良いソファー席、正方形の「作業台」(コロナ前は3つがありましたが、今は1つしかないです。それを使えるようにいつも開店時間ぴったりに訪ねます。)、数えれば数えるほど「おし」が出てきます。町田にお越し際にはぜひ一度訪れてみてください。

 以上のような条件が揃えたため、金森店は私の勉強のお供になります。3つ目の理由でもあります。学校から片道約1時間の遠いところで住んでいます。学校に行くたびに勇気が必要です。特にコロナ禍でリモート作業に慣れてきて、毎日電車に乗るのがさすがに疲れます。学校に行きたくない日、しかしタスクがある時に、必ずここに来ます。家で勉強したらと思われる方がいるかもしれませんが、私は家での集中力はゼロです。効率がものすごく悪いです。20平米の狭いルームとの関係もあり、家はやはり寝る、食べる、コンテンツを消費するなどといったリラックスする場所です。外で自分はコントロール「される」側に対して、内でせめて自分はコントロール「する」側でさせてほしいです。金森店に行って、パソコンを開いた瞬間、すぐに勉強モードに入れます。1杯のブラックを頼んで、頭がスッキリして、3時間で効率よく作業できます。ここで何冊の本を読んだのか、何本の課題レポートを書いたのかをすでにはっきり覚えていないです。ここでの3時間は、家での1日に同等します。なぜ3時間というと、金森店の唯一の不便な点(私にとって)にも関係しています。コンセントがない。パソコンは3時間くらいしか駆動できないです。でも、3時間はちょうど良い時間の区切りです。それ以上だと頭が働いてくれないと思います。

 時間の話をしたらぱっと思いついたのは、「One more coffee」サービスです。スタバはほかのコーヒーチェーン店より、やや高めの値段をつけています。しかしその一方で、ワンモアコーヒーというサービスがあり、当日100円(税抜)でもう1杯のコーヒーを飲めます。すなわち、朝から行って、お昼は家で食べて、午後あるいは夜はまたそこで楽しめます。その意味でコスパがいいのは4つ目の理由です。

 これから博士課程に行きますから、またしばらくここでお世話になります。



4.拠り所を探した結果

 修論の心得です。修士課程に入る前で、2年間で1本の論文を書くのは余裕ではないかと思いました。時間がたっぷりですし。しかし、修論発表を乗り越えた私は、修論は試練だといえる立場に立てるでしょう。その試練からいくつかの心得を共有したいです。

 第一に、最初は一番難しいです。最初というのは、テーマを決めることです。テーマはその文字数以上の重さがあります。これから修論の方向性、データ、方法、分析などといった論文の構成はすべてテーマによって変わります。テーマが重要である一方で、"良い"テーマにたどり着くことに、多くの人は悩まされているでしょう。私もその一員でした。今の修論のテーマを決める前に、3回くらいまったく違うテーマを持って先生と相談した記憶があります。とくに構想発表会に近づいているのに、要するに修士課程はすでに8分の3を過ぎてしまうのに、テーマをまだ決めていないなんて、とても焦りました。将来が見えないその不安を、修士課程の学生は誰もが多少感じると思います。それを乗り越えたらしばらく順調に進むでしょう。どうやって乗り越えられるかと聞かれましたら、私には分かりませんよ。先行研究を読んで先人の知恵を借いたり、やろうと思った研究の新規性と意義を論理的に立証されるためにエビデンスを探したりするといった地道な努力にほかならないでしょう。努力しても報われない場合も当然あります。そのような辛い思いが修士2年間にたくさんありましたよ。あくまでも試練の1つです。また、テーマは多少個人の趣味/関心所在に関係します。ただ、趣味と研究の違いは、体系的に扱うかどうかにあります(From私の指導教員のお話)。両者は違う次元にあり、趣味で研究テーマを決めることは、少しいい加減に見えます。

 第二に、期間限定の頑張りをやめる心構えを持ちます。修論は修士2年間のすべてではなく、そのなか、授業は大きな割合を示しています。面白い授業があったし、意味不明な授業もありました。特に修士1年は、修論に手が回らないほど授業が多くて、その時もしゼミで自分の進捗報告の順番が回ってくると、本当に最悪の事態です。準備不足で戦うのは怖かったです。自信がないままで発表するという抵抗感のほか、発表内容の脆弱性も一目瞭然のため、当然厳しく指摘されました。そのような経験も1つの試練です。解決法がないかと聞かれましたら、今回はあるかもしれないです!それは期間限定の頑張りをやめることです。私は何回も経験したことがありました。それは、今は一番忙しいから、もうしばらく頑張ったら時間があるから、その時リラックスしようと思ったら、次の取り組んでいかなければならないことが新しく出てきて、前よりさらに忙しくなった末に、ぜんぜん予定通りにリラックスできず、余計なストレスが溜まっており、メンタルやられました。そこで、期間限定の頑張りをやめる心構えを持って、1つずつ積み重ねていきましょう。例えば、どんなに忙しくても、修論に関することに定期的に時間をとってあげることを通じて、ゼミで自分の番に回ってきても少し余裕をもって対応できるでしょう。それに、もう1つ学会発表は、修論の進捗を大きく進めることができます。やはり内向きの研究室のゼミと大きく異なり、納得させる相手は研究分野に詳しい人たちだけになってしまう怖さを、ぜひ一度味わってみてほしいです。形式面でも内容面でも、様々な面で大きく成長させますよ。自分に試練を与えて、敢えて困難に立ち向かうことに対して、私は恐れることなく、むしろチャレンジしていきたいです。

 第三に、修論は1人の作業ではないです。だから構想発表会、中間発表会、修論発表会などの「審査」があるわけです。修論を書くにあたって、様々な本や文献を読みます。それらの先行文献を深掘りすればするほど、自分の主観的な主張を客観性で支える根拠を見つけられます。それで説得力を持つぞと思ったら、論理的な欠如や手落ちも先行文献を通じてだんだん自分で気づくようになってきました。修正すれば良いのですが、論文を仕上げた時点で気づいたら、もう間に合わないから、段階ごとに第三者とコミュニケーションを取るべきです。修士課程なら指導教員は一番適切な選択でしょう。自分の世界に入り込んで一人でせっせと修論を書くのが危ないです。批判的な意見を怖がらずに、素直に自分の不足を受け入れて改善し、より良い成果を示せば評価されるし、それで良いと思います。先行研究の話をして思いついたのは、先行研究の管理が大事です。Zoteroでも、Endnoteでも、何でも、自分にとって使いやすい"もの"であれば良くて、読んだ文献がごちゃごちゃにならないように一元管理にしましょう。それに、メモも取りましょう。それぞれの文献から得た知見、あるいは印象深い作者の論点、修論で参考になりそうなところ、などを随時に記録に残りましょう。自分の記憶力にあまり自信をもたないほうが良いと思います。受けた刺激を大切にして、あとの論文執筆に役立ちます。

 第四に、拠り所を明確にしましょう。この2年間で一番悩んだところでもあります。私は修論≠研究だと思います。しかし博士課程の道に選んでこれから研究者の仲間入りなので、研究をする以上、拠り所を明確にしないと辛いです。博士課程の入試を準備するにあたって、研究方法に自信がないため、以前を読んだ研究方法の本を改めて読みました。社会科学の考え方』『政治学の方法』『社会科学のケース・スタディ。驚いたのは、今それらから得たものは、以前読んだ時とまったく違うことです。やっとそれらの本の良さ、すすめされた/読まされた理由が分かりました。量的に演繹していくか、質的に帰納的分析するか、といった研究手法、すなわち定量か定性かはあくまでもメソードであり、メソードより上位なのは方法論です。方法論こそは研究の土台であり、研究のロジックに根拠を与えます。先に方法論を示して、読者は筆者がこれからどのような論理に基づいて論じていくのかがわかったうえで、結論や主張を信頼するかどうかを決めます。例えば、最初から解釈主義という立場を明示すると、読者は客観性という観点から評価しないでしょう。どの立場に立つのかを自ら認識できないと、論文の論理的な一貫性に欠けない可能性があります。方法論(拠り所)を探した結果、認識論というパラダイムに関係しています。すなわち、世界観によって手法を決めます。要するに、拠り所を探した結果、最も基本的な原点に戻りました。存在論、認識論、方法論などの関係は、ぜひ上記で挙げた本の中から答えを見つけてください。


5.‘リアル’ならではの悩みと喜び

 最後のテーマです。リアルというのは、オンラインの反対語です。オンラインに満たされたコロナ禍で、リアルな活動を非常に求めていました。私は積極的に活動に参加するタイプなので、コロナ禍でも多く対面の活動を体験しました。代表的には3つがあります。時系列で述べると、まず、図書館サポーターとして、チームを組んで図書館の宣伝動画を撮って作ったり、副学長や学校の先生にインタビューして記事を作成したりしていました。それらの活動を通じて分かったのは、自分が「編集」という仕事が好きです。もし博士課程に進学しなければ、第一希望として編集の仕事を探すと思います。そして、リーダーシップ教育院にも所属しており、チームワークは大きな特徴です。私は平和主義で他人と喧嘩しないタイプにもかかわらず、LLP(Lean Launch Pad)に参加した時にチームメンバーと喧嘩しました。担当の先生に、厳しい、まじめすぎると言われました。正直、このような性格にしょっちゅう悩んでいます。まじめは良いのですが、度を越えたまじめは他人にストレスをかけるし、自分も疲れてしまいます。まあ、修行ですね。さらに、コースの同期とNFTeamを組んで、ビジネスコンテストに挑戦し、学校から20万円の支援をいただいて、ビジネスアイディアを検証しました。ビジネスモデルとして立ち上げられなかったのですが、毎週の定例ミーティングで得たものが多かったです。いろいろ試行錯誤しましたが、修士課程でチーム活動できてよかったですし、何より優秀なメンバーに囲まれて、見習ったことが多くて、大変勉強になりました。


私の修士2年間は、以上です。
これからの博士課程を楽しみにしています。

ちなみに、ジムに行ってなかった。
ちなみに、現在は2月25日です。
ちなみに、今夜はNFTeamのお疲れ様会です。

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