2年次、先輩と組んでラテン戦に出場した話
年末にカップルが発表されて、年が明けるといよいよ固定パートナーとの練習が始まりました。
そしてそれまではモダン(スタンダード)種目だけだったのが、ラテン種目も競技に入ってきます。
当時(1990年頃)の学連の競技会は、モダン4種目とラテン3種目に限られていました。
4年間という短い時間のなかで両方とも器用に踊れる人は僅かです。多くの場合、モダンとラテンのどちらを主にやるかがわかれます。
それは単に身長を考慮してのこともあれば、部内の事情を反映して(お前はラテン、俺はモダン)という場合もありました。
ラテンを選んだ消極的な理由と積極的な理由
1年次は散々な結果に終わった競技会。
「どうせ身長の高いヤツが勝つに決まってる」と拗ねていた私は、ラテン一本に絞ることに決めました。
それは、パートナーのH川先輩もおなじ考えだったと思います。
ラテン3種目はルンバ、チャチャチャ、サンバ。単科線もあれば3種目の総合戦もありました。
モダンの練習がまずはホールドを張るところからだったように、ラテンの練習は立ち方から始まりました。
幸いなことにルンバは動きがゆっくりなので「これなら何とか踊れそう」という気持ちでウォークを練習します。
体は前傾して、胸を張って、背中はしっかり伸ばす…
当時はそんなことを考えていたんだと思います。ラテンが得意な先輩に教えてもらいながら、コツコツと練習する。
わからないなりにもいつしか、部活の練習以外にも7階へ上がるようになりました。
7階では、先輩カップルも授業の合間に(または授業をサボって)練習をしていました。私たちが1年のときに幹部だった先輩は4年生。モダンとラテンのカップルが1組ずついました。
モダンの先輩は、リーダーはシュツとしていてパートナーはスラッとした美人。ラテンのリーダーもイケメンでパートナーは愛嬌のある先輩たちでした。
私がラテンを選んだもう一つの理由は「あの先輩みたいにカッコよく踊りたい!」というラテンの先輩への憧れの気持ちからでした。
ラテンをかっこよく踊っていた (え)先輩は、いつもサスペンダーをしていて片手に扇子を持っていたのが印象的でした。
そして私も先輩の真似をして、サスペンダーに扇子という格好をするようになりました。
初めてのスタジオとダメダメな練習方法
4月になると2年生はスタジオへ通えるようになります。
当時、ダンススタジオは風営法の管理下に置かれていたため、20歳未満は通うことができない状況だったのです。だから、2年生からのスタジオ通い。
H川先輩と2人で行ったのは、関西でも大御所の先生がいる(お)ダンススタジオ。スタジオによってもモダン、ラテンと色分けされていて、足を運んだのはもちろんラテンのスタジオでした。
まずは基本のベーシックを踊ります。
そして体の使い方や男女の立ち位置、コネクションなどを直してもらいました。
それらは一度にできるようになることはなく、繰り返し同じことを指導されて少しずつ身について行きました。
しかし、いくらやってもまたおなじところを直されてしまいます。
きっと、それまでの体の使い方のクセなのでしょう。先生のレッスンを受けてアタマで理解しても、体がついて行きません。
自分ではやっているつもりでも、繰り返し指摘されると悔しくて仕方ありませんでした。
スタジオから帰って来て、習ったことを先輩と練習していてもだんだんと不機嫌になってきます。
なにせ大学に入るまで運動をしてこなかったので、練習に向き合う姿勢が出来ていません。なかなか上達しなかったのも無理はないと思います。
ちょっとできないとそこで躓いてしまい、おなじ足型の繰り返し…。
練習では1分半を続けて踊ったことはほとんどなかった記憶です。
やっぱりコンペで勝てないや
自分は【ラテンマン】なんだ。
(当時、関西ではマンをつけてラテンマン、モダンマンという呼び方が普通でした。いま思い出すと恥ずかしくなるのは何故でしょう)
…そう言い聞かせて競技会に出てみたものの、ラテンの競技会でもやっぱり一次落ち、二次落ちを繰り返すばかり。
運動音痴の自分がダンスを始めて1年やそこらで勝てるほど、甘くはありません。なんでアイツが上がって、オレが落ちるんだ?という理不尽な怒りを勝手に抱いていました。
そして、負けず嫌いなのにすぐにヘソを曲げる性格が災いして、パートナーとは言い争いをする。
30年経ってやっと、ダンスはコミュニケーションのスポーツと思えるようになりました。精神的にも社会で揉まれて強くなったぶん、当時を振り返ると青二才だった私を恥ずかしく思います。
一歩引いて練習風景を見てみると、うまく踊れないときに目に見えてバチバチと火花を散らすように言い争うカップルもいれば、かたや冷戦状態で口数が少なく無表情になるカップルもいました。
私たちのカップルは前者のタイプ、もうひと組いた同期のラテンカップルは後者のタイプでした。リーダーが2年生、パートナーが3年生というおなじ境遇だったのですが、練習風景はまったく正反対でした。
うちの大学はそもそものカップル数が少ない部だったので2年次の春シーズン、秋シーズンともひと通りの競技会に出場できたのですが、結果は振るわず仕舞い。もう一組のカップルも似たり寄ったりの結果でしたが、それでもおたがいに途中で投げ出すことなく、ダンス部を続けていました。
いま思うと、あのスタジオ代と衣装代、遠征費用はどうやって捻出していたのでしょうか。当時は授業そっちのけでダンスとバイトに明け暮れていたのです。
physical, mental, spiritual and social well-beingに生きるお手伝いをしています。2020.3に独立開業しました。家族を大切にし、一人ひとりが生き生きと人生を楽しめる社会が訪れるといいなと思いながら綴っています。