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《第二回,優しい、ちびっこマスク》


 ミナリさん、「明日から出勤しないでくれ」と言われて50日が経ったよ。しかも、「なるべく家にいてくれ」なんて言うもんだから、最初は戸惑ったな。
 もちろん、50日間一歩も家から出ないなんてことは出来ないから、食材とかが無くなったら買い物には行くし、散歩だってするんだけどさ。

 あ、「出勤しないでくれ」と言われたからといっても、バイトをクビになったわけじゃなくて、ただ、シフトを入れてもらえないだけなんだ。今は最少人数、社員だけで仕事を回すんだと。
 彼らは「責任」とか「命」とかいうヘンテコな言葉を使って、まるで正義のヒーローみたいな台詞を平気で言ってるんだけど、オレからしてみたら、そんなのは全くもって正義じゃないよ。結局、夢も学もなくて、どこにも属していないオレのような半端モノは、この世に不必要だから死ねということを公式に(なにが公式か分かってないけど)言われたような気分なんだ。
 ミナリさん、オレの言いたいこと分かる?……まあ、そう思われても仕方ないくらいオレには何もないんだけどね。

 公式のヤツら(誰が公式か分かってないけど)の誤算は、オレには使い道の無かった貯金が結構あって、切り崩していくことで、50日間はこうして何の支障もなく生きていけていることだと思う。だからオレは別のバイトを探すことなく50日を過ごしてきたんだけど、これがまた結構面白いんだよね。

 これはオレだけの気持ちなのかもしれないけど、ここまでやることがないと、何の能力もない空っぽのオレだけど、「なにかやりたいな」という漠然とした“なにかの欲望”が沸いてくるんだよ!これにはオレも驚いた。その欲望の正体は分からないんだけど、こうしてミナリさんに連絡をしてるのも、この“なにかの欲望”のうちの一個なんだと思う。驚いたでしょ?

 正直、これはオレに貯金があって、支障なく生活できたからこそ感じたことなんだと思う。オレが浪費家だったら、悲惨なことになってただろうな。
 バイトしかない人生で、使わないから金が勝手に貯まってただけなのに、こんな状況になって初めて上の連中(何が上か分からないけど)の気持ちが分かったような気がするよ。これが“余裕”ってやつなのかもな。
 バイトのシフトを組んでもらえず、やることがなくなって、ただ生きてるだけなのに“余裕”を感じてるなんて変な話だよな。
 それほど、生きることは難しいってことなんだと思うよ。……ねえ、ミナリさん、ついてこれてる?

 余裕を感じるようになると、何が変わると思う?多分、世界を見る目が変わるんだよ。世界というか、つまり人を見る目なのかな?そして、オレは優しさに目を向けるようになった気がするんだ。

 この前、公園を散歩している時に、オレがマスクをしてなかったってだけで、ゴキブリを見るような視線(ゴキブリに謝れ)を露骨に送ってくる人がいたんだけどさ、今までだったら「よく、そんな簡単に“自称”正義にすぎない危険な剣を振りかざせるよな」くらいに思って流して終わってたんだけど、今は「なぜ人は危険な行為をするのか」なんて、難しそうな本の題名みたいなことを想像するようになったんだよ!凄くない?

 オレが想像するに、その人には、多分、家族がいる。その人は家族を支えなければいけない立場にあって、家族の中には介助を必要としている人がいる。いつも“死”のヤツが近くにいて、脅かしているんだと思う。それで、家族に何かあった時に「お前のせいだ」って“死”のヤツが囁くんだよ。

 ミナリさんが同じ状況だったらどうする?『何かあった時』をなるべく回避したいと思うでしょ?オレだったらそう思うよ。

 だから、『何かあった時』を回避するために、危険な剣を振りかざすんだよ。〈攻撃は最大の防御なり〉なんて言葉もあったと思うんだけど(無くなってたらゴメン)、守りたい人が沢山いたり、その想いが強いほど、危険を回避するための攻撃をするんだと思うんだ。

 ミナリさん、オレはそう思うと色々納得がいったんだ。世直し的な、世界を守るために!なんていう“自称”正義じゃなくて、大切なモノを失いたくない優しい気持ちが、つい、関係のない他人にまで剣を振りかざしてしまう時がある。

 そんなことを考えていると、バイト先の社員の連中のことも、なんていうか、凄いなって思うんだよね。こんなオレのことも大切な存在だと思ってくれてたのかもしれない。優しいなってさ。なんか、まんまと術中にハマってる気がするし(何の術かは分からないけど)、アホらしいんだけどさ、こうやって考えるようになると、オレ、なんか楽しいんだよね。

 実はこの気持ち、オレにゴキブリ視線(ゴキブリに謝れ)を送ってきたその人が、公園で遊んでいた〈マスクをしていない子どもたち〉を見て、穏やかで優しい顔をしていたから考えるようになったんだ。
 多分、この世に生まれてきて数年のチビちゃんたちは、息苦しいマスクをつけるのが単純にイヤなんだよね。ママやパパが無理矢理マスクをつけても取ってしまう。地球の空気をいっぱい吸いたいんだよ。オレもその人も、子どもだった時期があるんだから、そのくらいは分かる。
 だから、無闇に剣を振りかざしているわけじゃない、その人の寛容さっていうの?そんな部分に触れた気がして、優しさについて色々考えるようになったんだ。

 長くなったけど、結論としては、この世に生まれてきてくれたチビちゃんたち、ママ、パパ、ありがとうってこと。(ま、そういうことなんだよ)

 ミナリさん、明日からまたバイト生活が再開するんだ。
 結局“なにかの欲望”の正体は分からず、夢も学もないままオレの人生は進んでいくと思うんだけどさ、この50日で、なにかが始まった気がするんだよね。これまた、“なにか”の正体はよく分かってないんだけど。

 空っぽの人生も悪くなかったけど、分からないだらけの“なにか”たちと一緒に生きる人生ってのも悪くなさそうな気がするんだ。

 ミナリさん、無能なオレだけど、のんびり生きていくからさ、ミナリさんも、そっちの世界でどうかのんびり見ててよ。じゃっ!

 
おわり


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