ベルリンで起こった中国人差別をうけて思うこと

ベルリンで23歳の中国人女性が、2人の女性に人種差別的侮辱を受けつばをはかれ、髪を引っぱられ殴る蹴るの暴行ののち頭部を負傷して病院に運ばれた事件について、ベルリンに30年近く住むアジア人男性と話していた。
(ドイツ語ニュース)

「(そんな報いを得るんだから)程度の低い馬鹿は相手にしないのが正しい」
長年マイノリティのアジア人としてドイツですごしてきて、若い頃はレイシスト相手に喧嘩をして自身も病院に運ばれることがあったという彼からすれば、そのような思考回路になることは一見するとうなずける。


だけど同時に何かが欠けていると思った。


同じように世界中でコロナウイルス をきっかけとしたアジア人差別が勃発するなか、どうしようもない悲しみや怒りが湧き上がっている同じアジア人の若者の私に対しての"毅然"とした"アドバイス"。


ああ、対抗したところで誰にも助けられず、身体や口を押さえつけられ、無力感を植え付けられて生きてきた弱者は、怒ることすらもできなくなるのだ。さらに最悪なことに、彼はそれをさも大人の余裕かのように言ってくる。自分の悔しかった体験を昇華させるには、目の前の若者にアドバイスするしかないと想像すると、とてもいたわしく思う。「若いっていいね〜」彼は付け加える。


街中で侮辱を受けた時、特に被害者が女性であれば、身を守るためにレイシストを相手にしないことは適切な対処と言われる。もっとも低脳なレイシストに何を言っても話は通じないのだ。


ただ、尊厳を傷つけられたときに咄嗟に反論したのであろう彼女にはとても同情する。決して合理的ではないが、道理的であると感じる。


女性差別問題にしても、例えば女性がセクハラ男性を批判するとき、「愛想よい女性を演じていたほうが楽だよ〜弱いふりして手玉にとればいいのよ」と同じ女性が”アドバイス”する構図はよく散見される。"毅然"な態度をもつ彼女たちこそ、差別や無力感を、無意識的にも意識的にも最も実感し、助長している存在ではないのか。(そんな風に考えざるを得ない実状であるのは痛ましいのだが)


だけど今日得られている少ない女性の権利は、本来なら味方である女性からも糾弾され、ぼろぼろになりながら声をあげ続けてきた、やはり女性たちによってやっと確立されてきたものなのだ。

いや、権利を勝ち取れるかどうかではなく、怒りの声がかき消された上に、そんな感情を抱くことは人間として未熟、といわれることにシンプルに納得がいかない。しかも差別被害経験者の口から。先の会話の男性と話していてひっかかったところはここだった。


「かっかするな」「エネルギーの無駄」といわれようが、私は、その時に感じたことに素直に向き合い、ちゃんと悲しみたいし怒りたい。
そして同じように悲しんでいる人たちに、寄り添える人でありたい。


FUCK RACISM

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