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オカネノハナシ

(※文章にはなってるけど、思い出したこと箇条書きしてる感じで話の繋がり見えないかも)

お金のことを考え出すと鬱屈としてくる。
コロナ禍でさえなければ使わなくてよかったお金。
住んでもないのに払う家賃
使ってないのに消えてく光熱費
こんなことならまだ実家にいたのに。
いくら消えたかな、何回免許取れるかな、
考え出すと眉間に皺がよるまじで。
死なないんだけど、めっちゃ死にたくなる。
免許取って全身脱毛したって余裕であまりあるお金をドブに捨てたな。
いや、「ドブに捨てた」って表現は悲しいな。
まあでもいい教訓になったな、あまりにも高すぎるけど。


お金の使い方だったり、それ自体の価値観ってやっぱそれぞれ各々の環境によって変わると思うんだけど、やっぱりこれは近い人の方が居心地がいい。
母子家庭であることを傘に着るつもりはないけど、どうしても、お金があんまりない。
友達とお金無い〜って話になった時、明らかに買えないものが違うんだよ。
生活に直結するかそうでないか。
お互いにとって、“欲しい”ものが買えないという状況は一緒なんだけど、“欲しい”の基準がもはや違うんだよな。
そりゃ波長が合わないわけだ。

小学生の時先生に、欲しいものがあるか問われたことがある。
その時いた友達がなんて言ったかは忘れたけど、私は特に思いつかなくて「無い」と答えた。
先生は「ええ〜無いんか〜?」とちょっと驚き混じりに優しくリアクションして、それからちょっと考えて、「でも、欲しいものがないのは幸せってことなんかもしれへんな」と。
この先生の好きなとこは、断定するのではなく、「かもしれないね」とあくまで可能性を提示してくれたところ。
自分の世界を広げるにあたり、決めつけとか思い込みって本当に危険やな、ってこれ思い出してて思った。

それはさておき、欲しいものがないのは幸せなのか問題。
先生に言われた時、「私は、幸せなのか...?」ってめっちゃ考えた。わからんかった。
小学校高学年の頃には、私の買い物基準は既に、「コレがないと生きていけないかどうか」だったし、全てがそうだとは言わないけど、迷ったら大抵この問いかけで諦めてた。

ネトゲのCMを見た時、ふと「これ面白そう」って言った時のこと
基本的にアレコレ買ってというタイプではないしけれど、あまりにも必要最低限くらいのことしか欲しいと言わないもんだから、その一言でお母さんが「これ欲しいん?」と聞いてきたことがある。
まさかそんな返事が来るとは思ってなくて、ほんとにましてや欲しくて言ったわけじゃなかったから、「いやいや!そういうわけじゃないんやけど」って否定した。
ほんとにポロッと言っただけだったのに。
お母さんがそんな風に反応してしまうくらいに私は欲求が無かったのか、はたまた私がめちゃくちゃ欲しそうに見えたのか...

そんなわけで私の“欲しい”基準は小学生時点で「これが無くても生きていけるかどうか」だったわけで、そんな基準だから特に何かを欲しがることもなく、欲しいって伝えたものは、それをいうこと自体が珍しくて買ってくれたこともあった。
あの時(先生との会話時)、「欲しいものは持っていたから、私にはその時欲しいものはなかった」と、言えるのかもしれない。
別に不自由していたわけではないけど、幸せと呼べるのかはやっぱりわからない。








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