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「なんとなく」関わって、分かったこと。

先日、こちらのイベントの企画運営に携わった(公務員ブロガー 納翔一郎さんの記事より)↓
https://naya0708.hatenablog.com/entry/2020/08/05/214744?fbclid=IwAR2ye6PP8BtWdG8_K-cYzA-cUkY3_FEZWdur_gzNHv00HVzpVIMziwoPwsA
全国の公務員による、大規模なオンライン交流会である。

3月に行われた前回、たまたまご縁があり誘ってもらったのが関わり始めたきっかけだ。“教育公務員”志望とは言え、所謂お役所の国家公務員・地方公務員の仕事に高い関心があるわけではない。でも、コンセプトである

「公務員の志や能力が1%上がれば、世の中無茶苦茶良くなるんじゃないか」

というのは、確かに実現できたらいいのは間違いないし、なんとなく面白そうだった。元々企画運営は好きなのもあって、興味本位で引き受けたのだった。

前回は直前にほんの少し関わったのだけれども、いい出会いが沢山あって満足した反面、「直前にほんの少し」では、企画のその実は正直よく分からずに終わった。だから、今回準備段階にきちんと関わることにしたのは、
「まだよく分からないから、取り敢えずもっとちゃんとやってみたい」
みたいなところが動機として大きかった。

*****

終わってから2週間ほどたったが、「よく分からないから取り敢えずもう一度やってみた」結果、1つ、いや2つ、分かったことがある。

1つは、興味や「なんとなく」で関わることの限界。
もっと言えば、企画の目指すところに対し、「情熱」ではなく「理解」や「理想」のレベルで関わることの限界、である。


ある主張やスローガンがあったとして、それに広義「賛同」する人には、ざっくり3種類いるように思う。

①理解…それが大切であること、望ましい状態であることは理解している。その実現には特段明確な意志や興味が無い。
②理想…それがあわよくば実現したらいいな、実現できたら面白いな、と感じている。(wishのレベル)
③情熱…それを是非とも実現したい、自分(の時間・知恵・労力)を投資してでも実現にこぎつけたい、と思っている。(wantのレベル)

公務員の志や可能性の向上や、それを通して世の中を良くすることは、私にとって多分、②の「理想」=wishのレベルなのだと思う。公務員への見方はこの会に接点を持ってから大きく変わったし、それ以前と比較すればあくまで③の否定ではなく①の進歩の意味合いが強いのだけれども。それでも、少なくとも相対的に「公務員から世の中を変える」ことの優先順位は、未だ自分の中でそう高くないと言わざるを得ないような気がした。
(些か自己弁護的であれだが、これは必ずしも恥ずかしいことではなく、政治や行政の力を理屈ではなく直観的に感じられるか否かの違いなのかな、と思っている。)


なんとなくでも「実現したらいいな」と共鳴する部分があれば、関わってみてもいいと思っていたし、今もだめだとは思っていない。
でも、少なくとも私の場合、「理想」のレベルで企画やイベントにディープに関わったとき、確実に役に立てない・頑張りきれない部分があることが分かった。

それを最も痛感したのは、あるコンテンツについての話し合いに参加したときだった。新型コロナが流行するまで、この会はずっとオフラインで開催していて、そのコンテンツはオフライン開催時に継続的に扱ってきたものだった。そのコンテンツの価値をオンラインでどう位置付けるか、という話し合いに、コンテンツ主担当の方々にまざって私も急遽参加することになった。
この会のメインコンテンツは、講演と参加者同士の交流なので、最悪このコンテンツが無くても会は意義あるものとして存在できる。継続してきた結果運営にも参加者にも愛されているとは言え、「オンラインでもやらないと(会の)意味が無い」ものではなく「意味があればオンラインでもやる」ものであり、ある種いつでも割り切ることはできたのである。

私はこの話に、主担当の彼らと同じパッションでこだわりきれなかった。議論に皆が納得いくまで参加して一緒に考えることはできたけれど、できなくてもいいかもしれないことに、もっとこうしたいという意志を最後まで持てなかった。どこまで行っても、私の意見は「私はこうしたい」じゃなくて、「みんな的にはこれがベストだろう」を示すものに過ぎなかった。それがなんだか悲しくて、周りのモチベーションを下げている気がして、申し訳なかった。
(※スタッフの振り返りで盛大に誤解を招いた気がするので弁解すると、本質に立ち返って腑に落ちるまでロジックを詰めていく過程は楽しくて、つまらなかったわけでも、自己犠牲的に致し方なくまざっていたわけでも全くない。)

*****

こうなると2つ問題があって、1つは「私がこの会に携わる意味」というまあまあな大問題なのだが、これは一旦後に置いておく。もう1つは、じゃあ結果的に「何が楽しくて最後まで携わったのか」という点である。

そもそもあまり働けていなかったので関与した部分自体少ないのだが、できたかどうかは別として、私がこの企画の運営でモチベーションを持ち続けられたこと、好き好んで頑張れたことは、多分これらだ。

・参加者対応…丁寧に、早く(←要反省)メールやグループ参加のリクエストに返信すること。
・議事録隊の運営…チームの人がなるべく困らないように、何でも言えるように、できれば帰属感や安心感があるように関係づくりやアナウンスをすること。

あとは仕事ではないけれども、大きな仕事を持てていないなりに、大変そうな人の何か拾えないかな、どこまでやったら助けになれてどこまでやったら却って迷惑かな、というのは、ずっと頭にあったと思う。

私がこの企画の運営で見出していたモチベーション、それは、そこにいる人になるべく不自由がないように、居心地が良いようにすることだった。参加者であれ、運営の先輩方や仲間であれ、理不尽に不快な思いをしたりストレスを抱えたりするのが直観的に嫌なのだ。
そしてこれがある意味、コンテンツに関係無く、ひいてはイベント運営に限らず私を突き動かすものなのかもしれないと気付いた。そこにいる誰かが価値や学びを得る以前に、その誰かにとってここにいることが安心で幸せであること。イベント運営においては最低限の下地にすぎないのかもしれないが、そこに私は強いモチベというか、必要感を持っているらしい。

ゼロ以上の状態からさらなるプラスを生み出すことに、コンテンツそのものに対するそれなりの熱量という条件付きでないとモチベーションを持てないのは弱みだけれども、あってはならないマイナスをゼロ(或いはプラス)にする余地にアンテナを張って、そこに責任を持てることは、良い事かはともかく私らしさの1つなのかもしれない。これが、私が今回得たもう1つの大きな気付きである。

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さて、そんなモチべを発見できたから結果論としては最後まで楽しく続けられたとして、脇に置いておいたもう1つの問題がある。
何故この会か
先のモチベは、言ってしまえば他の企画の運営でも満たしうるわけである。携わる場として外でもないこの会を選ぶ理由、必然性は、どこにあるのか。

結論から言うと、必然性は無いのかもしれない。
イベントや企画は、今世の中にあふれている。実際に関わるところまで辿り着けるかは別として、コンテンツ自体が私にとって「情熱」=wantのレベルで、プラスの付加価値を生み出す過程からがんがん楽しめる企画は、探せばいくらでもあるのだろう。そして、この会のクリエイティブで挑戦的な性格を考慮すればするほど、私のようなモチベで企画に関わる人間は運営にそこまで求められていないし、向いてもいない。

でも、事実、この会の目指すところは私にとってwantよりも手前かもしれない、と今回分かったところで、「じゃあもう次はいいかな」とは思わなかったのである。むしろ次また関われる機会があれば、関わりたいと思っている。(直近の次回は出られない可能性が高いのだけれども…)

何故だろうと考えた時に、やはり居心地の良さ・安心感を確保したい、応援したいと思う「そこにいる人」が誰か、というところに辿り着く気がする。その「そこにいる人」として、私はこの会をつくりあげている人たち、そして参加している人たちが好きだ。そのパッションが、本気が、私にまた「この人たちの力になりたい」と思わせる。私でも支えられる人は他の場所にもいるという理屈以上に、この人たちに出会ったからには支えたい、あわよくば同じ昂揚感をまた味わいたいという気持ちが、紛れもない事実としてそこにあるのである。

わがままにすぎないかもしれない。また、迷惑もかけるだろう。
でも、wishのレベルの人間でもこういう形でここに関わることが、もう少しの間だけ許されたら、と思う。勿論、次は「居心地の良さ」をもっと形にすることと引き替えに。

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