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社会に問いかける。愛の血で滲んだ最大の疑問符。

今回はRADWIMPSの『愛にできることはまだあるかい』について論じていこうと思う。

まずはこのようなすばらしい楽曲について論じさせてもらえることに感謝したい。曲の解説の前にRADWIMPSというバンドがいったい何であったかということを私の視点から論じさせていただく。
RADWIMPSというバンドはまさに平成が生んだバンド界における「温故知新の体現者」のようなバンドだ。
彼らは過去の日本音楽、洋楽に影響を受けながら、2000年代まで繰り返してきた音楽のシーンを完全にある方向においてアップデートしたのだ。その特殊性と他の追随を許さないのは、彼らの「自由度の広さ」にある。ユーモアのセンス、キャッチーでありながら哀愁を漂うメロディー、ふざけ、歌詞の詰め込み、隠喩(メタファー 例:君は人間洗浄機)、換喩(メトニミー 例:クローンが成功)、レトリックに富んだ歌詞が聴いている側をRADWIMPSしいては野田洋次郎の世界に連れて行ってしまう。今日のリスナーの理解できるMAXの範囲の中で遊びを“見せた”そのうまさと本人たちの“遊びを楽しんだ”という見せ方と彼ら自身の楽しみ方のバランスがうまく、まるで喜怒哀楽の遊園地のような彼らの繰り出す音楽は日本の音楽シーンに繰り返しを与えないほど自由なものである。しかも、彼等はそれでいてキャッチーだ。すなわち日本のリスナーが聞きやすい型の中でそれを体現しているのだ。ボーカルの野田洋次郎は特にイケメンなわけでもない、歌がバカうまいわけでもない、ただ彼の放つ優しさ、繊細さを、きれいなレトリカルな言葉にしてそれをきれいなメロディーにのせた世界観は、中二病を発狂さることも大人に広く共感させることもできた。ゆえに彼らはある種の宗教的カリスマ性をもてたのだ。ただ、なぜ彼らが日本の音楽シーンにこれまで愛されたかというと、それは野田洋次郎だったから(アレテー)。という理由しかない。

おかずのごはん(2006)

私見だが、彼の作品は「アルトコロニーの定理 (2009)」で完成している。完成というよりあたまうちに近い状態だ。ラッドウィンプスは自由な発想を何よりも重んじていた。ただその自由さはスキルであり、歴代の作品を聞き比べると曲調はどんどん複雑化している。2006年 「RADWIMPS 4〜おかずのごはん〜」は日常をこれほどにも自由に音に乗せて描くことができるのか!!と衝撃を与えたくれた。しかし彼はこの時にすでに、万人に理解されるようなものを題材をレトリカルに描くことに飽きてしまったのだ。そして自由への限界。その三年後のアルトコロニーの定理から、は歌詞は一気に抽象的で理性的なものにシフトする。

これまでは『RADWIMPS 4〜おかずのごはん〜』などに見られるように一貫してアルバム名には「バンド名(RADWIMPS)+番号+副題」というスタイルでタイトルをつけてきていたが、このアルバムではその流れを解消している。理由は予定調和が嫌であるし、惰性にもなりたくなく「これまでの延長線上に今回のアルバムがあるけれどもこれまでとは異次元のものが出来た」ということを示したかったからであると述べている。

そして、ジャケットが表しているように非常に理性的なメタファーで構築されたことがわかる。彼の問題意識、主張も大きく変化する。「日常」から「社会」へ人の描き方も「君は」から「人間は」へとシフトしメッセージの抽象度が増し本質的に、少しずつ難解にならざるを得ない。

アルトコロニーの定理(2009)

しかし、曲を理性で書き出した瞬間、メジャー的な作り方にならざるを得ない。故に私は高校生のとき部活が始まる前にアルトコロニーの定理を聴き終わり「あっラッド終わった。」と思ったのを覚えている。当時の彼女にもイヤホンを渡して「聴いたら最後だよ。」と言ったのも覚えている。すなわち完成したのだ。現実を精一杯描くインディーズとしての日が。それ以降は現実を理性的に切っていく作業に転向していく。もちろんすばらしい曲もヒットする曲はある、「前前前世」をもってRADWIMPSは紅白にも出演した。しかし、古いファンなら誰も一番好きな曲を聞かれて「前前前世」と答えることはしないだろう。
ちなみに私は2006年リリースの「ささくれ」が一番好きだ。大大大好きだ。

もうやりつくした。曲は抽象度を増し、歌うことも社会的なことになる。社会を歌うバンドは確実に社会の問題にぶつかる。ゆえに彼らはそれについて一般人に理解されるようになんとか難題なメッセージを一度うすめて、オブラートに包んで曲にするしかない。「HINOMARU」や「PAPARAZZI」などがそれにあたる。彼自身も、RADWIMPSでできることの限界を感じてソロ活動をしたり、芸能人と付き合って『五月の蠅』を作ったり、芸能人の誕生パーティーでDJをやったり、紅白にでたり、役者をやったり、すでにその生活はただの芸能人であり、もうあのころの感覚で曲を作る事は不可能だ。彼の見る社会も大きく変化し、その分差を感じ、差の中に問題を見出し、それを伝えたくはなるけれど、音楽である以上薄める必要があり、薄めても結局は伝わらないという現実にぶつかっただろう。

そんな日々の中での「 愛にできることはまだあるかい」は映画の主題歌であること以上に彼にとっての社会というリアルへ最大の疑問を苦し紛れに絞り出す中で生まれた疑問としてぶつけた曲になっている。 おそらく映画の曲である以上かなりの制約があっただろう、しかし彼なりにかなり攻めている。曲の長さ7分29秒がものがっている。もしこの長さが映画サイドの要求だった場合。そうであればあるほど、彼が“曲を延ばすためになにをしたか”が浮き彫りになるので、どのみち面白い。

歌詞

RADWIMPS – 愛にできることはまだあるかい
作詞作曲 野田洋次郎

①何も持たずに 生まれ堕ちた僕
永遠の隙間で のたうち回ってる

②諦めた者と 賢い者だけが勝者の時代に どこで息を吸う
支配者も神も どこか他人顔
だけど本当は 分かっているはず

③勇気や希望や 絆とかの魔法
使い道もなく オトナは眼を背ける

④それでもあの日の 君が今もまだ
僕の全正義の ど真ん中にいる

⑤世界が背中を 向けてもまだなお
立ち向かう君が 今もここにいる

⑥愛にできることはまだあるかい
僕にできることはまだあるかい

⑦君がくれた勇気だから 君のために使いたいんだ
君と分け合った愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

⑧愛にできることはまだあるかい
僕にできることは まだあるかい

⑨運命(サダメ)とはつまり サイコロの出た目?
はたまた神の いつもの気まぐれ

⑩選び選ばれた 脱げられぬ鎧
もしくは遥かな 揺らぐことない意志
果たさぬ願いと 叶わぬ再会と
ほどけぬ誤解と 降り積もる憎悪と許し合う声と 握りしめ合う手を
この星は今日も 抱えて生きてる

⑪愛にできることはまだあるかい?
僕にできることはまだあるかい

⑫君がくれた勇気だから 君のために使いたいんだ
君と育てた愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

⑬愛にできることはまだあるかい
僕にできることは まだあるかい

⑭何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたか

⑮なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも、きれいかい答えてよ

⑯愛の歌も 歌われ尽くした 数多の映画で 語られ尽くした
そんな荒野に 生まれ落ちた僕、君 それでも

⑰愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ

っと書いていく前に
長くなったのでまた次回

#音楽
#エッセイ
#コラム
#RADWIMPS


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