見出し画像

おおかみ子供の雨と雪

今回の紹介するのは細田守監督の「おおかみこどもの雨と雪」を紹介しようと思います。

そっ直な観測から言うと「素晴らしい」の一言。

細田監督の他作でありながら、近いモチーフを描くバケモノの子よりもはるかに純度が高く美しい作品でだった。

簡単にストーリーを説明すると

主人公である女性、花は大学時代に狼と人間のハーフの狼男に恋をし、その二人の子供を授かる、姉は雪といい、弟は雨と言う。子供は人間から狼に簡単に姿を変えることができ、遊んでいる最中も興奮したりすると狼に姿を変える。ただ、一般人に見られると大騒ぎになるので、花は山奥の田舎に引っ越す。
最終的に姉の雪は人間の女性として生きることを決意し、弟の雨は狼として生きることを決意する。

映画は裏設定などを置いて、「どこまで説明するか」と言うという「説明率」ものがある。もちろんそれは受け手のリテラシーは想像力でまかなえるものではあるが、今回はバックグラウンドについての説明率が低い。基本的に推測を「まぁ映画やから」と諦めるしかない部分もある。

まずこの映画の場合、花が子供を授かって、夫がすぐに、狼の姿で川で溺れ死んでいるのが目撃される。しかし、なんでそんな死に方をしたかは分からない。できちゃった婚であり、おそらく結婚式もしていない。でもそれはわからない。花の両親は真面目な人でありそうなニュアンスは数カ所でてくるが、花の両親との関係はほぼ描かれない。花のバックグラウンドに関しては全くわからない。しかし、都会暮らしであることや、そこそこ裕福な家庭だったニュアンスはある。ただ、花の性格の柔らかさを見ていると優しい両親であったことは推測できる。
唯一具体的な手がかりとなるのは、花の父親は花という名前に以下の願いを込めた
「花のように笑顔を絶やさない子になっていてほしい、辛いときも悲しいときも、そうしたらなんでも乗り越えられるように」この部分。

これが花の性格であり、アレテー(哲学用語:そのものの持った得意とする性質)です。
アレテーは総理の映画評論では今後よく出てくるワードなので少し説明すると

アレテー〈一覧〉
・馬のアレテーは早く走ること
・大地のアレテーは良い土壌を持つこと
・ナイフのアレテーはよく切れること

こんな感じで大体分かったんじゃないかな。

そのものの本姓をよく生かすもの みたいな感じで理解してください。

花のアレテーはまさに名前の意味に由来されたものをそのまま意味します。
後にこの性質は、娘の雪に形を変えて受け継がれます。

花と彼は、東京のとある大学の哲学の講義で出会う。教授は「ソクラテスの弁明」という有名な哲学の本の講義をしている。
彼の佇まいに興味を持った花は彼にアプローチしていきます。二人は一気に近づき、彼の狼男であるという暴露を受け入れるという通過儀礼(イニシエーション(新しい関係性のための儀礼)例:日本でいうところの成人式(それにより大人の仲間入りをする)を通じて二人はカップルになります。
恋人(狼男)の死後、金銭的にも、二人の幼い子供の世話で睡眠時間もなく、アパートの住民から夜泣きがうるさいとどやされ、過酷な生活を送りながら全くイライラしたりせず、アレテーのままに完璧な母親として存在します。アニメでは全く違和感はありませんが、普通ならほぼありません。普通は親がイライラ、精神が不安定になることはあり得ますが、花にはありません。まさに、それを可能にするのは花のアレテーの力です。

しかし、次第に周囲からの目が気になり、田舎に引っ越します。

ポイントは、引越しをした理由が「人間か狼か、どちらとして生きるかを選べるから」という理由から花が引越しを決意した部分にあります。

すなわち、都会の東京では「人間」としての生き方しか許されないのです。
自給自足がほぼメインの田舎では、地元共同体に畑の作り方を教えてもらい、おすそ分けをもらい生活します。それでもなかなかハードです。

子供達は狼で外を走り回ったりできるので楽しそうです。
弟の雨は内気な性格で、初め都会の暮らしに戻りたいと言います。すなわち人間として生きたいのです。
姉の雪は天真爛漫でとにかく明るく、狼になってイノシシを追い払ったりします(それが理由で、花の畑は今後動物に荒らされたりしません)。
ここでポイントなのは「雨は人間へ」、「雪は狼へ」という分かりやすい二項対立の構図が見えるのですが、それは違います。
雨は確かに都会の暮らし(社会)で狼性を自分の中から排除して生きて行こうとしますが、雪はこの時点ではむしろ両方です、バランスが非常にいいのです。田舎も楽しみながらその後、学校(社会)にもすぐに溶け込みます。

しかし、ある出来事をきっかけに、互いの生き方のスタンスが非常にはっきりして生きます。

雨は「自然」すなわち狼に向かい、雪は「学校」すなわち人間の暮らしに向かいます。

そしてその後、二人の生き方はまるで✖️(クロス)したかのようにどんどん離れていきます。
雪は人間へ。
雨は狼へ。

その出来事とは、雨が川で溺れてしまう事件です。
この時は雪が助けますが、雨はこの日から何か自分の本性に気づいたかのようにはっきりとした人生観を持つようになります。

この映画での雪と雨は困難→救済⇨共感⇨決断というプロセスを通り自分になります。

雪は学校(社会)へ向かいますが、やはり狼であるが故の「困難」があります。
①周りの女の子と趣味が合わない。
低学年:雪は、カエルやヘビの骸骨を集めるのが好きですが、当然周りの子はビーズや指輪のようなものが好きです。この趣味の乖離を、母親がそんな雪の悩みを聞いて作ってくれた青いワンピースが包摂します。
②高学年:転校生の男の子に獣の匂いがすると言われ、自分のことだと思い、人から距離を置こうとします。付きまとう男の子を、狼モードで引っ掻き耳に傷を負わせてしまいます。両親が呼び出しになる騒動になり、雪は責められます。しかし、男の子は「狼がやった(やったのは雪じゃない)」といい、雪と責任者としての花はかろうじてモンスターペアレンツからの追撃から逃れます。そして最後にその男の子が、あの時のオオカミは雪だったことを知っていた事を告白。雪の正体を知っていたが庇われていたことに雪は気づきます。青いワンピースの次はこの男の子を通じて(人間社会)に受け入れられます。
1度目の、母のワンピース、2度目の転校生の受容という「救済」により、雪は社会の中で人間としてやっていくことを決定づけられます。

雪の場合の共感の段階、雪をかばった転校生は両親が再婚し、妊娠し、自分はいらないとされていることを雪に暴露します。そう二人ともこの現代に生きずらさを抱えていることを「共感」しあいます。ここに大きな「共感」が生まれ、この苦悩の共有により、自分と転校生を媒介とした都会社会も同じであることを知り、何も変わらないこと、故に楽な方を選ぶことではなく、どちらもしんどいことを前提として前に進むことを暗に受け入れます。ここでは、田舎と都会、狼と人間という2つの隠喩を受け入れるということが含まれています。そして雪が「選択」したのは、やはり都会と、人間です。 すなわち「決断」です。

雪は狼性を、少年は母親からの愛からの疎外感を、そして二人は早く大人になりたいと言います。すなわち、二人とも「大人」と「自由(解放)」をリンクさせ、憧れます。しかしその自由の内容は、雪と少年では違います。少年が、親への他律ではなく自立に自由を見ますが、雪の自由はあくまでも狼性を持ちながら葛藤したこの田舎の暮らしの日々です。しかしそれでもシンパシーを二人は感じ合います。もう2度と出会わないかもしれない、でも、その瞬間二人の心は水のように通じ合い、1つになるのでした。その後、雪の「都会」「人間」の選択を証拠づけるように、卒業後すぐに都会の中学に進学します。

一方、雨は学校になじめず、いじめにもあいます(困難)、家にいますがやはり花の中には少し不安が残ります。しかし、地域の住民が学校に行かないことを全く否定しません。むしろ受け入れてあげます。この部分が1回目の「救済」になります。
そんな日々の中で、雨は一頭の施設に預けられた狼と出会います。しかし、その狼はとても寂しそうです。本当は自然の中をかけめぐることがアレテーである狼にとって、飼い主を無くし檻の中にいるのは、アレテーの否定なので非常に生きずらいものになります。そしてその狼は狼として生きることを諦めてしまったのです。生きずらさ、その疎外感が、自分は狼であるのに人間として生きているという雪の小さな生きずらさ、疑念と「共感」します。

その後すぐ、雨は大自然の長老である狐を先生と仰ぎその弟子として毎日狼としての本性を全うしていき、最後には長老の後を継ぐことで狼として生きることを「選択」します。

最後はそのような子供の選択を花がどう受け入れるかというところが焦点になります。
まず花は都会育ちで、女性です。すなわち雪の生き方はすんなり受け入れられます。しかし、雨の生き方をそうすぐ受け入れません。

雨はやや“抜けている”ところがあり、花の涙を見て花の心の奥の気持ちにようやく気づきます。家族の中では女性+社会派の空気があるのですが、雪は意識レベルでは気にしていません。花は不登校になった雨は「いつか学校に帰ってくるだろう」と心の底では願っていますが、それが難しいことも心のどこかで気づいています。しかし、

性別が違う上に、人間と狼男という二重の差によって雨と花の間には共通項が足りません。

すなわち、分かり合えるために必要なものがぽっかりと空いているのです。

そんな時、花は夢の中に出て来た夫に『雨は大丈夫』と諭されます。
夫は男性であり狼男なので一番雨を理解できる存在です。夫を愛している花からするとその言葉で、二人の間の溝が少し埋まる準備ができます。

そしてクライマックスの大雨の嵐の中
森を守りにいった雨を追いかけて、花は山の中、雨を探し回ります。花は雨がここで引き止めなければ狼として生きることいくことを心のどこかで気付いていたのです。

そして、山の奥深くでクマに遭遇します。結局襲われはしませんでしたが、そのクマの存在が『ここは人間の来る場所じゃない』というメッセージを含意しています。すなわち、その世界で生きている雨はもう、人間のサイドではない事をうまく表現しています。うまい。

最終的に花は足を滑らせ、転び、夫の夢を見て、諭され、雨に助けられ、安全な場所まで運ばれます。
最後雨は花の呼び止める声を無視して、山を猛スピードで駆け上がり、昇り来る朝日と共に雄叫びをあげます。

その姿に花はついに、雨の狼としての生き方を認めます。自分はまだ何も雨にしてあげられていなかった、でも精一杯雨を支えて受け止めて生きてきた、その結果雨は狼として立派に生きる事を純粋に決断できた、あとは雨を信じるしかない。花はそう決心します。

何を隠そう、この瞬間、花は母親になったのです。

すなわち、子供の生き方を、自律を認めた瞬間、花は本当の母親になったのです。

そう、この『おおかみ子どもの雨と雪』ストーリーのテーマは子どもの成長を通じて、“花が母になる”ストーリーとも捉えることが可能です。

花は子供の成長を受け止め、受容し、子供たちはスレずに育ったでも、ここぞというところで父親が出てきて家族がそれぞれの生き方を認め合えた。すなわち、家族総動員でお互いを支え合っていたわけです。そして間違いなくその中心は花であり、この物語の主人公は花です。

テーマとして根幹に流れる、“本性を受け入れる”というテーマは現代人には欠けている重要なテーマです。とにかく競争社会の中では自らを常に否定して高みを目指さねばならないという風潮があります。しかし、自分の本性を受け入れることが何より大切なのであります。

子供の自律を認めない親や
何が大切なことか分からない若者に是非見てもらいたいほんっとに素晴らしい良作です。

ありがとうございました。

ほんっと素晴らしいよね!

#映画批評
#映画
#エッセイ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?