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無駄なことが知りたい。ずっと。オセロ。

無駄とは何かということを今日は考えたい。
そもそも“無駄なこと”とは何か。

近年はもっぱら合理化が進み、無駄なことが増えてきた。というより、合理化そのものが無色透明のものに対して、無駄というラベリングを押していい理由になった。合理的にものを進めるのが良いという、資本主義、民主主義に底通するその思考そのものが大量の無駄という概念を生んできた。そのような結果、企業では無駄を省いてコスト削減、無駄だからもっと効率をあげるべきなどの風潮や、無駄なものは省くべきという合理主義的な人々がふえてきた。

無駄というものは、概念で意味である。

無駄には客体がない。無駄くんが歩いているのを見たことはないし、無駄くんが公園で昼寝しているのも見たいことがない。

客体としての無駄はどこにも存在しない。
そして当然個人の脳の中にも無駄という概念は存在しない。脳を開けても無駄というシナプスは見つけられない。

そもそも、意味という概念や言葉という概念や体験や経験などの内的イメージは脳のどこにも見当たらない。

合理主義は主義なので、ある種の過剰性を持つ。
共産主義、民主主義、実存主義、実在主義、観念主義、懐疑主義、その全てにおいて主義は過剰性を持つ。一言で言えば、バランスが悪いのだ。
合理主義も当然同じである。適当にものごとに無駄というレッテルを貼り、それが本当に無駄だったかどうかを一切考えなくていいという盲信させてくれる。合理主義が無駄とした事をあとから、あの中にも意味があった。などと言うことは滅多にない。

合理主義が一つの生物であれば、常に合理主義は非合理なものによってその存在を輪郭ずけられる。
ブタが食べ物ないと生きられないように、合理主義は非合理的という存在によって生かされている。
合理主義にとってその食べ物がまさに無駄 なのだ。
彼らは無駄によって生かされている。

さて、合理主義と無駄の関係について書いてきたが、無駄も無駄という存在を輪郭ずけるために、意味あるものの存在を必要とする。

右があるためには左が必要なように、無駄もまたその対立によって意味を与えてくれる存在が必要になる。当然無駄の逆の言葉は、無駄ではない。ではない。それは単なる否定形だ。
無駄の逆の概念は結果なのだ。結局あれが無駄だったかどうかという議論は、結果によってその意味が変わる。無駄だと思ってやっていたことがいつか報われると無駄な事ではなくなり、オセロのように全部ひっくり返っていく。

すると、あれは無駄なんかじゃなかった!
と思うようになる。

そう、すなわち、無駄かどうかということはある程度それが過去にならないと分からない。

すなわち、無駄という概念は現在では予測不能なのだ。そして、それが未来無駄だったと思うと、無駄になるが、また未来それが無駄だったかどうかが変わることがある。

オセロと違って、人生のオセロには縁が無い。
永遠に開かれ続けているのだ。

だから、無駄かどうかは判断することはできない。

ある関数をとって、数字だけでみた場合、無駄という言葉は正当性をもっているように見えるが、その無駄を省くことによって生まれる意味付けは結果の議論になる。

だから、無駄という言葉を使うならばこの未来の結果に依存するという永遠の課題をクリアしないといけない。しかしそれは人間では不可能なので、〜は無駄だという命題は終了せざるを得ない。よって、無駄なことは存在する。とは言えない。

私がしている音楽に意味があるとか、無いとか私は考えたことがない。周りから見た無駄でもやるし。結果が一切保証されてなくてもやるし。自分にとってやる事に意義のあることをやる。

合理主義はその未来人間が正しい方向に向かえば合理主義自体が無駄だったという烙印を押される可能性もある。

全てのことは未来によって暫定的に規定されるからだ。だから、あんまり意味があるとかないとか考えずに楽にいきましょう。

そう思いながら、公園でタバコを吸っている。子供たちは無邪気で元気だ。可愛い。どうか、遊んでる時間は無駄だから勉強しなさいという親がこれ以上増えませんように。

それにしても、昨日のモンスターサミット面白かったな。スタッフの皆さんに感謝です。
みてくれた人ありがとう。

今日はこの辺で。





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